わたしの弟は、

 わたしの弟は、穏やかで安定感のある人なので、あまりそうはみえないのだけど、心のなかはぐらぐらしているのだろうと、ずっとわたしは思っていた。姉である自分には弟が表には出さない本心がわかる、というような話ではなく、弟の心の底なんてぜんぜんわからないけれど、ただ、そうじゃないと変だと思っていた。みたところの弟は、あきらかに一人でいくらでも生きていける人間だったけど、でも、ほんとうは安心して帰れる場所がすごくすごく欲しいはずだった。子ども時代のわたしたちは、いっしょに住んでいたころはいっしょに不幸だったし、べつべつに住んでいたころはべつべつに孤独だった。べつべつに住んでいたころの弟がどれほど孤独だったかという想像が、年齢を重ねるごとにわたしのなかで膨張していた。わたしは実際のそのころの弟の生活のことをほとんどなにも知らず、つまり、自分はなにもできなかった、という罪悪感が残りつづけていたのだと思う。
 結婚すると聞いたとき、欲しかった種類の居場所をついに手に入れるんだと思って、弟のために嬉しかった。人には誰にでもどうしても叶えたい願いがあるけれど、ほんとうの願いはたいていは叶わない。だけど、弟はそれを叶えるんだと思い、そのころは毎晩帰り道に泣いていた。しかし、それはわたしの想像上の弟の話だった。想像上の弟が、想像上の願いを叶え、想像上で幸せになる。わたしのなかにしかないおとぎ話のようなものだ。それもわかっていたけれど、それでも、弟のために嬉しかった。想像上の弟が幸せになることで、想像上の十代の弟がすこしずつ癒された。
 結婚から二年遅れて結婚式が行われて、披露宴でマイクを握った現実の弟が、わたしの想像上の弟と同じことを言った。「幼少期から安心して帰れる家がなかった」「今やっとそれを手に入れた」答え合わせのように、まったく想像通りの言葉が述べられていき、わたしは自分の弟がすごく幸せであることと、それから、自分がゆめみた最大のおとぎ話が叶っていたことを知った。「遠慮なく幸せをつかんでいこうと思っていますので」と最後に弟は言った。
 わたしは、弟が結婚をしたことが嬉しかった。それは「恋人」や「パートナー」や「同居人」を得る、ということとはなにか根本的なちがいがあった。弟のスピーチを聞いているうちに、ふたりの「結婚」という選択がわたしにとって特別だった理由がやっとなんとなくわかった。結婚は「われわれは家族である」という声明だから。弟はようするにずっと家族が欲しかったのだろうと思う。
 家族ならわたしだって喉から手が出るほど欲しいけれど、正確には書くならばわたしが欲しいのは「家族に似たなにか」だ。家族に似たなにかなら欲しいような気がするが、家族そのものはだめだ、と思いつづけてきた。家族に傷ついた人間はだいたいそんなものなのではないかと思う。家族とは、遠目には輝かしく、近づいて触ると破滅する、矛盾を孕んだ美しい幻のようなものだ。だからこそ、弟の「結婚」という選択からは、「似たなにか」ではなく「家族そのもの」を得ようとする果敢さを感じて、それが眩しかったのだと思う。わたしの弟にはそういうところがある。希望を捨てないところが。希望の捨て方をぜんぜんわかっていないようなところが。マイクを握っている弟をみながら、いっしょに声明を出してくれる勇敢な人と出会えてよかったし、家族を欲しがりつづけたのもほんとうにえらかった、と思った。家族を得るのは簡単じゃない。それ以前に、家族を欲しがることが簡単じゃない。
 弟たちの関係性はお互いの居場所の確保に力点が置かれておらず、それよりも社会のなかに弱者の居場所をつくることに関心があるようにみえる。密室で孤独をメンテナンスしあう関係というよりは、共同作業のなかに事後的に居場所を創出する方法ははるかにサスティナブルで、どうしてそんなに正しい選択ができるのかとくらくらしてしまう。幸せが、つづくといいと思う。