最後のとき

 その旅館は外観こそかなりの年季を感じさせたが、部屋は古いなりにこぎれいで、エアコンの効きも悪くなかったし、大きな窓からは海がみえた。フロントの奥には宿泊客が予約制で利用できる小さな貸し切り風呂も備えられている。姿を見ることは叶わなかったが猫もいるらしかった。ただ、エレベーターだけはおそろしかった。床の踏み心地がぶわぶわとしていて、乗り込むだけできしむように揺れる。そして、動き出すときも止まるときも函がいちいちガタン、と嫌な身震いをするのだった。おまけにシンドラー社と書いてある。かつて死亡事故を起こしたシンドラー社のエレベーターにネガティブな印象があるのは特定の世代だけだろうか? わたしたちの部屋は五階で、おかげで見晴らしはよかったけれど、貸し切り風呂に入りに行くにも街に遊びに出かけるにも、エレベーターに乗らないわけにはいかなかった。
 何回目かに三人でエレベーターに乗った際、フロント係なのか支配人なのか清掃員なのかそのすべてを兼ねているのか、とにかく滞在中に見かけたただ一人の従業員である初老の女性と乗り合わせ、にこやかに「最後の旅行ですか」と奇妙な質問をされた。わたしたちは死ぬのか、それともこの旅行を機に絶縁して二度と会わなくなったりするのか、近日中に地球が滅びるのか。返答に詰まっていると彼女は「夏休み最後の旅行?」と聞き直してきた。わたしたちは安心して、ええ、はい、そんなところです、と答えたけれど、よくよく考えるとその質問もなんとなく変だった。
 最後、という単語がふたたび耳に飛び込んできたのは、その夜にストリップ劇場で芝居仕立てのチームショーを見ている最中のことだった。ある女性ふたりの、不倫を含む同性愛が新聞にスクープされる。本人たちはそのことをどこかはしゃぐように話題にしたあとで、「いよいよ最後のときが来たわね」と言ってのける。雰囲気に深刻さはなく、ふざけて降参するような口調にも聞こえたが、実際には「最後」とは死を指していたようで、話は心中へと急ハンドルを切っていった。
 八月から九月をまたぐ数日間、海沿いの街で過ごした。波打ち際のある砂浜ではたくさんの人間が全身や半身や体の一部を海に浸していた。日が傾いても人々はなかなか帰らず、名残惜しそうに薄暗い浜辺で遊んでいた。夏休みが終わる時期だからなのか、それが夏のあいだ毎日繰り広げられていた光景なのかはわたしにはわからなかった。ごく個人的なことを言えば、わたしは新しい年齢になったばかりで、それは新しいと同時に三十代最後の年齢でもあるのだった。