あまりに死にたいのでおかしいなと思ってドトールで三十分眠ったらすっかり元気になった。眠ったというか仕事の資料を開いて読んでいるふりをしていたら自然にまぶたが落ちてきたのでしばらく目を閉じて、なにか夢をみていたが内容はもう忘れた。わたしはどこででも眠れる。ドトールでも、カプセルホテルでも、よその家でも、他人のベッドでも、路上でも。メンタルの不調の九割は睡眠不足からくることはよく知られている。とにかく眠れてないとだめだ。思い返せば今朝は蕁麻疹から一日がはじまって、最初から幸先が悪かった。わたしは冬になると夜にときどき蕁麻疹が出るのだけど、冬でもなければ夜でもないのにこんなに派手な蕁麻疹が出るのはわりと嫌な感じだった。三時間しか寝てない状態で朝から用事を済ませ、映画を見て、仕事をし、要するに完全に眠かった。映画館で寝るつもり満々だったのに映画がおもしろすぎたのもよくなかった。ドトールで仮眠するという正しい判断を経て、路上に出たらさきほどまでと違って視界がキラキラとしていて、自分が回復したことがわかったが、三十分経つころには元通り死にたくなった。充電効率が悪すぎる! 寿命を迎えつつあるスマホのようである。駅のエスカレーターに乗っていると、すれ違う反対側のエスカレーターに乗っている人ひとりひとりを「わたしを助けてくれる人かもしれない」と思っていちいち顔を見てしまうが、誰がそうなのか、どうやって見分けたらいいのかがわからない。ほんとうはいないということもわかっている。混んだ電車のなかでドアに身体を押しつけられて、額をガラスにつけて外を眺めていると少しだけ気分がいい。わたしは自分にとって最大限快適な生き方を選択しつづけていて、たとえば一人暮らしをしていることはその選択に含まれるのだが、自分の選択の負の部分が拡大されて突発的に前景化することがある。自分だけが団欒から取り残されている、という思い込み。遠くのほうに青っぽくぼーっと浮かび上がる電波塔がみえるのだが、こんなところから東京タワーもスカイツリーもみえるはずはなく、あれがなんなのかわからない。電車の速さで移動する景色を目に流し込みながら、自分のなかの衝動性を点検する。通過駅の駅舎のガラスにわたしが乗っている電車が映り、光が液体のように流れていく。自分がほんとうにまずい状態だと感じることはほとんどない。あのタワーは幽霊のようにみえる。
140字に収まらなかった夢日記
バスのなかでおむつ替えシートを要求した乗客がキレて運転手を殺してしまう。おむつ替えシートの代わりにプラスティックの雪ソリを提供されたことが不満だったらしく、その理由なら仕方がないかと思う。運転手がいなくなったのにバスは動き出し、運転席が二人の逃走犯に乗っ取られたことがやがて判明する。しばらくのバス旅ののちに流れ着いた空き家で、逃走犯たち、運転手を殺した客とその赤ちゃん、わたしたちカップル、という六人の共同生活が始まる。逃走犯たちは片手に手錠を嵌めたままだ(もともと両手にかかってたうち、一方は外せたらしい)。世間から身を隠して暮らすという方針でわれわれはなんとなく合意しているのだが、逃走犯たちは赤ちゃんを警戒している。赤ちゃんがもう少し成長したあかつきに、子どもだから空気を読まずに外部の人間にこの生活のことを漏らすようになるのではないかと疑っていて、赤ちゃんを排除しようとする考えがあるので油断できない。空き家はもともと荒廃していたが、どんどんお化け屋敷のようになっていき、ある朝は十人の人間が空中からぶらさがっている。いっけん死体のように見えるが、実は全て生きている人間が蓑虫のようにぶら下がっていて、赤ちゃんに危害を加えようとする逃走犯たちをけん制するために脅かしているだけだ。
下高井戸駅前に青磁色のタイルに覆われた印象的な建物があり、見た目はヴィンテージマンションなのだが、実は有名な喫茶店なのである。店舗は四階にあり、それ以下の階がなんなのかはよくわからない。螺旋階段を辛抱強くのぼっていくとガラス張りの喫茶店が出現して、店内はコメダ珈琲に似ていてあかるい。店の前まで来てみたものの、さっきドブに落ちてしばらくドブのなかを歩く羽目になった自分の汚さが急に気にかかり、かなり臭いはずでもあるし、店に入るのはやっぱりやめておこうと思う。ところが、店内からガラス越しに手を振ってくる人間がいる。大きいテーブル席を埋めている六人ほどのグループの一人で、知人ではなさそうなので構わず帰ろうとするが、その六人が以前仕事で関わったバンドだということを急に思い出す。手を振ってきたのはボーカルで、彼の髪型が以前とまったく違うので気づけなかった。慌てて店内に入ると、近くの二人席に座っていた人たちもバンドの関係者らしく、バンドと親しげに振る舞うわたしを訝ってかうんざりした調子で「この人誰?」と言われる。目が覚めてから、下高井戸駅に青磁色のビルがあるとか、バンドと仕事をしたことがあるとか、夢のなかのそういう妙に具体的なディテールが、現実には存在すらしないということにちょっと呆然とする。下高井戸駅なんて現実には降りたことすらないんじゃないか。夢とはそういうものだといえばそれまでだが、夢のなかでは「なぜ忘れていたんだろう!そうそう、確かにそうだった」と「記憶が蘇る」感覚があるのに、その内容がまったくのでたらめだというのはやはり腑に落ちない。この「記憶が蘇った」と感じるときの鮮やかなリアリティはかなりおそろしく、気が狂うときはこういう糸口から狂っていくものなのではないかと思う。気が狂うのが本当に怖い。
愛について書いた文章
わたしが言ったことをおぼえてくれているよりも、その人自身が言ったことをおぼえてくれていることのほうに愛を感じる。愛というか、愛という言葉は正確ではないような気はするけど、注意が払われている、脳のリソースが割かれている、と感じる。
友だちの誕生日プレゼントにmintdesignsのくつしたをあげた。かわいいやつ。学生時代、つまりは二十年近く前の話だと思うけれど、彼女に好きな服屋さんを聞いたときに、あまり買えないけどmintdesigns、という答えが返ってきたのをおぼえていた。たったいちどきり交わした会話だったけど、その返答を自分が記憶していたことにはべつに感動しない。人が好きなファッションブランドというのはわたしにとってかなり重要な情報だし、その人の出身地や、家族構成や、酒場で一杯目に飲むか、という項目同様に、頭のなかでいちど紐づけば忘れないたぐいの情報でもある。驚いたのは、プレゼントを渡したしばらくあとに、「学生のときにわたしが『mintdesignsが憧れ』と言ったのをおぼえていてくださってありがとうございました」とお礼メッセージが来たことだった。「わたしが好きなブランドをおぼえていてくれてありがとう」ではなかったこと。直感的に、学生時代のいつごろ、どんな口調で交わした会話なのかも彼女はたぶんおぼえているんだろうと思った。
一回性の「人の好きなものを聞いた記憶」ではなく、あまりに日常的な「自分が好きなものを言った記憶」のほうが、ずっとずっと消えやすいはずだ。繰り返され、上書きされ、曖昧になる。自分が何を好きかということによって、自分自身は変化しないのだから。
何を好きで、何を嫌いか。大人になった人間は自分の輪郭をはっきりと持っていて、周囲の人間に自分のことを教えこみつづけている。教えこまれて変化するのはまわりであり、〈自分〉はその中心で孤独な星のように一方的に光るだけ。〈自分〉というたった一人の人間と、〈自分以外〉という無数の人間によって構成されている、というのがふつうの人間の世界観だと思うけれど、その非対称性はときおりこうして突き崩される。あなたの世界に人間はわたししかいないんですね、という錯覚を抱かされる瞬間の喜び、歪んだ喜びだとは思うけれど、友だちに対して抱く喜びはなぜかだいたい歪んでいるのです。愛だろ。
「わたしは抵抗したのだ」
むかしの自分の文章を読むと、「ほんとうのこと」を書かなければならない、ということがわかる。批評を書くことについてわたしの物心がついたのは二〇一八年のことなので、むかしと言っても、どんなに遡っても八年前が行き止まりで、それほど大掛かりな遡行ではないのだけど、それでも、自分の過去の文章とは第一には恥ずかしいものである。技術的にあまりにまずかったり、勢いが空回りしていたり、言葉の使いかたが間違っていたり、赤面するところだらけで、人様にこれを読んでほしい(あるいは読み返してほしい)という気持ちにはほぼならないのだけど、それでも、どれだけへたくそな文章でも、かつての自分がどうにかして「ほんとうに思ったこと」を書こうとはしている、ということだけが今の自分を救ってくれるので、未来の自分のためにわたしは今現在の「ほんとうに思っていること」を書こうとし続けなくてはならない。
無難さに文章を明け渡すのはとても簡単で、「正解っぽいこと」も「こう書いたら怒られなさそうなこと」も、空気中からいくらでも取り出せる。得られるであろう合意から逆算した言葉で文章を埋めても、その瞬間その瞬間には傷つきすらしないだろう。でも、それは、未来の自分の眼には、自分が凌辱されている姿の写真に等しい。人は言おうと望んでいないことを決して言わされてはならないが、現実には「自ら望んで言った」という体裁のなかで、むしろ得意げな顔で、思ってもいないことを口から出すものなのではないか。わたしは抵抗したのだ、という証拠を残すことだけが自分自身への贈り物になりえる。
ほんとうに思ったことを書くためには、小さな文章でも、かならず何か発明をしなければならない部分があって、それが消耗する部分でもあり、おもしろみでもあり、ときには心底苦しいけど、発明をせずにほんとうのことを書くことはできない。心が折れたら終わりだ。心が折れませんように。毎日思っている。心が折れませんように。
客席で、わたしはたった一人になれる
踊り子とお客さんの拮抗を楽しみたい、と宇佐美なつさんは言った。仮にお客さんが宇佐美さんに従属してしまった場合、「それは〈劇場〉じゃない、〈私の国〉ができているだけだから」と。この劇場観にわたしは感銘を受けて、なぜか手もとに赤ペンしかなかったので鞄から出てきた裏紙を真っ赤にしながらトークのメモをとっていたのだけど、宇佐美さんのこの言葉を赤ペンでぐるぐる囲んでさらに真っ赤にした。渋谷のLOFT9で開催された、「まだまだ!ストリップは止まらない」という頼もしいタイトルのトークイベントを聞きに行ったときのこと。
このごろ、ストリップのどこが好きなんですか? という質問をされることが増え、それも、若い女の子が緊張した面持ちで聞いてくれることが多いので、わたしはそのたびに質問の裏側に響く「なぜストリップは〈大丈夫〉なんですか?」「ストリップは私を傷つけるでしょう?」という不安を聞き取っている。だから、わたしなりに真剣に言葉を尽くして答えたり、ときには何もかもはしょってしみじみと「女が好きで、えろいものを見られるとうれしいから」と答えたりもしているけど、なんにせよ、わたしの回答のサビは「主体的だから」だ。ストリップにおける踊り子さんがどれほど主体的で、この社会で女の身体を使った表現が主体的であるというのがどれほど希少なことか、という点に説明の言葉を割いていると思う。そんな自分の「ストリップを好きな理由リスト」に、くっきりと「一人になれるから」という項目があることを発見したトークイベントだった。
宇佐美さんの話を聞きながら、北山さんのことを考えていた。両者が似てる、というわけではないけれど(ストリッパーと歌人が「似る」というのがどういうことなのかよくわからないし)、わたしが北山あさひの歌を好きなのと、宇佐美なつのことを好きなのは、あくまでわたし個人のうえでは同じことのような気がするから。このふたりは要するに〈個〉を重んじる表現者で、世界に目を光らせ、反応し、対話しながらも、たった一人でいる、ということを手放さない。この人たちは「人とは、人それぞれである」ということに関して、異常な頑固さをみせるのだ。ときにはかなりあけすけに自分を開示してくれながら、でも、他人と同一化すること、主語の大きな物語に巻き込まれることを慎重に拒む。ステージと客席はある意味では鏡写しなので、ステージ上に踊り子さんがひとりで立ってくれることによって、それはもう、徹底した〈たった一人〉でいてくれることによって、客席で、わたしはたった一人になれる。
二村ヒトシの話のなかで、アダルトビデオと比較されることで照らし出されたのもストリップは「一人」でやっているものである、という特異さだった。よくよく考えると、「一人」でかつ「性的」であるというのは奇妙なことだ。わたしにとって短歌もそういうものだ。我妻さんが『起きられない朝のための短歌入門』に書いていた、〈短歌の定型は私たちがひとりひとりみんな違う人間だということ、その孤独を祝福するためにあるのだと私は信じている〉という一文にわたしは心酔していて、ストリップのステージもまた、私たちがひとりひとりみんな違う人間だということ、その孤独を祝福するためにあるように感じるのだった。
いちめんのたんぽぽ畑に呆けていたい結婚を一人でしたい 北山あさひ『崖にて』
「反・結婚」というキーワードでレジュメを切って『崖にて』について発表したことすらあるのに、わたしはこの歌が「結婚をしたくない」でも、「独身でいたい」でもなく、「結婚を一人でしたい」であることを今まで読み落としていたような気がする。
宇佐美さんは、友だちが必要ない性格なので、時間があるときは家のドレッサーの前に座って大好きな自分の顔をみているのだと言っていた。〈結婚を一人で〉している! ほんとうにかっこいい人だと思う。
福祉
初詣にはどちらかというと行くほうなのだが、人混みや行列が嫌いなので、何時間も並んでまで元旦に初詣をしようという気持ちはまったく理解できない。大晦日にいつものように紅白歌合戦を見終えてぼんやりと「ゆく年くる年」を眺めていたら、浅草寺に大河のように人間が押し寄せている様子が映っている。検索してみたら、浅草寺での二年参りは行列に並びはじめてから参拝するまで四時間くらいはかかるようだった。テレビのなかの浅草寺だけではなく、元旦は近所の小さな神社ですら行列している。宗教行事は絶対的なものなので、並んでいるあの人たちが全員神道の信者なのだということならなにも不思議はないのだけど、あの人たちはほぼ全員が無神論者だ。それなのに、貴重な年末年始休みのうちの一部を投じ、真冬の屋外の人混みという過酷な状況に四時間も耐えて、数十秒の、どうせ叶いもしない神頼みの時間を持ちたがっている。
理解できないものが好きなので、テレビ画面も凝視してしまうし、近所の神社の行列も見物に行ったのだけど、眺めているうちに、初詣って「ほぼ無料」なんだよな、ということに気がついた。お賽銭箱に投げ込む金額は、五円玉とか十円玉がいいとこじゃない? お正月だともうすこし奮発する場合もあるのかな。大きい神社で札束が投げ込まれているのも見たことがあるけど、お賽銭が一円玉だったからといって後ろめたいということはとくにない。おみくじや縁起物を買ったりお祓いをしたり、重課金していけばまあきりがないけど、すくなくとも神社の入場は無料である。だれでもお正月を迎えた気分になれる。この世で「みんながやってること」に参加するにはとにかくお金がかかる。年間行事もそうだし、人生のイベントもそう。参加している側から見れば取るに足りないようなイベントであっても、疎外されている側はどれほど惨めな気持ちになるのかをわたしは知っている。五円や十円で「お正月」にログインできる初詣は福祉なのだと思った。
わたしの初詣は渋谷道頓堀劇場だった。いや、神社への初詣もたぶん一月中の平日の日中とかに行くと思うけど、三が日早々、行列と人混みをものともせずに乗り込むという意味では道劇に行ったのがもっとも初詣的な行いなのではないかと思う。ある踊り子さんの演目を見ている最中にぼんやりと「死のうかな」という気分になり、とくべつ暗い演目というわけでもなく、なにかナイーブな部分が刺激されるような演出だというわけでもなく、いい踊り子さんのいい演目なのに、とつぜん悪い意味で視界がクリアになった。自分はもう無理なのだという気づきが明晰に組み立てられていき、十五分のあいだに具体的な算段まで完了したところで演目が終わった。ストリップを見ているとアイデアが湧いてきて仕事がはかどることが多いのだけど、それと同じ作用にバッドトリップさせられたような気がする。自分に、自分の原液が流れ込んでくる。「ストリップを見る」ってそういうところあるよなと思ったけれど、単にわたしが鬱状態なのかもしれない。
北限
わたしは結婚をしたことがないので当然離婚をしたことがないのだけど、離婚を経験した人の多くが妙に力のこもった口調で「離婚は大変だ」と語る、その離婚独特の「大変さ」に関心がある。素人(離婚の)としては、親しかった他人と決別するときに発生する心理的な負荷のことばかり思い浮かべてしまうのだけど、おそらく離婚の大変さのメインはそういった情緒的な辛さではなく、生活のシステムが配偶者を含んだ状態で回っている以上、その相手を取り除くことで、ときには意図せぬ範囲にまで影響が及ぶ、ということなのではないかと想像する。離婚というのは単に人生から人間がひとり消える、ということではないのだろう、と。
あるストリップ劇場の閉館のニュースが飛び込んできたときに、最初にわたしの頭を占めたのは、その閉館による影響関係の大きさを知りたい、という焦りだった。劇場がひとつ消えるというのは、単に劇場がひとつ消えるということではないからだ。
どんなジャンルでも、あるいは人間関係でもそうだと思うけれど、「ストリップを見る」というとき、そこには複数の対象との関わりが同時に発生している。踊り子さんとの関わりがあり、劇場という空間との関わりがあり、ストリップというジャンルとの関わりがある。それは普段は体系だって行儀よく折り重なっているので、ほとんど一体のものに思える。自宅の外に市があり、市の外に県があり、県の外に国がある、といったふうに。家にいるときにわざわざ「わたしは家にいて、同時に小平市と東京都と日本と地球にいるなあ」とは考えない。
うまく回っているあいだはシンプルに思える構造が、歯車がひとつ外れた瞬間に意外なほど複雑な様相を見せることがある。一つの劇場がなくなるというのはそれ自体寂しいことだけど、それは同時に踊り子さんの仕事を減らす要因でもあり、そして、ストリップという業界自体への向かい風でもある。複数の懸念を前に、壊れた信号機のようにわたしの気持ちは目まぐるしく切り替わり、どれを見つめるべきなのか決められなかった。
一つ一つ分解して考えると、踊り子さんが失われるのは引退するときで、ストリップが失われるのはジャンル自体が滅びるときだ。いま目の前で失われようとしているのは劇場なのだから、劇場を惜しむ気持ちに集中するべきであるようにも思えるが、法律上新設ができないことになっているらしいストリップ劇場は全国から減る一方で、一つの劇場に対する感傷は、こんなことで業界自体はどうなっていくのか、という憂いにすぐに書き換えられていく上に、わたしにとっていちばん優先順位が高い関心事は正直なところ「所属の踊り子さんの処遇を一秒でも早く教えて今すぐ教えて」という一点だったりもする。全国の劇場分布を説明するときの「埼玉県が北限」はぎりぎり笑えたけど、「池袋が北限」はもう笑えない。
新しい劇場をつくれない、現存する劇場をすべて使い切ったらその先がない、という状況は、ジャンル自体が余命宣告(それもかなり差し迫った)をされているに等しい。ジャンルの余命と、自分が見続けたい踊り子さんの余命、本来は連動しつつも別々であるはずのその二つの意味合いが、「劇場」という物理的な場の消失によって、同一視させられ、混乱させられる。
差しつづけなければいずれ失明する〈いずれ〉が死より先に来るなら 大松達知『ばんじろう』
最近こういう歌を読んだ。眼という器官の死を、自分本体の死よりも先送りにするために目薬を差しつづける。こう考えると死とは不思議なもので、わたしたちの身体の臓器や器官はある程度ばらばらに寿命をむかえるが、各器官の寿命が本体の寿命よりあまりに先んじるのも生活が不便だし、かと言って、あまりに余力を残した状態で死ぬのももったいない。「大往生」という言葉がポジティブな意味で使われるのは、ある一定の年齢に達することができた、その数値に対する評価というよりは、各器官の寿命をいい感じにぜんぶ使い切ることができました、というバランス感覚への賞賛なのかもしれない。
ストリップに「大往生」を望まない。すべてが、しぶとく、一秒でも長く存在してくれているといいと思う。そして、自分の心の底を覗きこむと、「余命」が見えていないものをそもそも自分はここまで好きになっただろうか、という声もするのだった。ものごとには黎明期と死に際しかないのだと思う。早く大人になりたい、と焦っている時間と、もうすぐ死ぬんだな、と焦っている時間以外が、果たして人生に存在するだろうか。