むかしの自分の文章を読むと、「ほんとうのこと」を書かなければならない、ということがわかる。批評を書くことについてわたしの物心がついたのは二〇一八年のことなので、むかしと言っても、どんなに遡っても八年前が行き止まりで、それほど大掛かりな遡行ではないのだけど、それでも、自分の過去の文章とは第一には恥ずかしいものである。技術的にあまりにまずかったり、勢いが空回りしていたり、言葉の使いかたが間違っていたり、赤面するところだらけで、人様にこれを読んでほしい(あるいは読み返してほしい)という気持ちにはほぼならないのだけど、それでも、どれだけへたくそな文章でも、かつての自分がどうにかして「ほんとうに思ったこと」を書こうとはしている、ということだけが今の自分を救ってくれるので、未来の自分のためにわたしは今現在の「ほんとうに思っていること」を書こうとし続けなくてはならない。
無難さに文章を明け渡すのはとても簡単で、「正解っぽいこと」も「こう書いたら怒られなさそうなこと」も、空気中からいくらでも取り出せる。得られるであろう合意から逆算した言葉で文章を埋めても、その瞬間その瞬間には傷つきすらしないだろう。でも、それは、未来の自分の眼には、自分が凌辱されている姿の写真に等しい。人は言おうと望んでいないことを決して言わされてはならないが、現実には「自ら望んで言った」という体裁のなかで、むしろ得意げな顔で、思ってもいないことを口から出すものなのではないか。わたしは抵抗したのだ、という証拠を残すことだけが自分自身への贈り物になりえる。
ほんとうに思ったことを書くためには、小さな文章でも、かならず何か発明をしなければならない部分があって、それが消耗する部分でもあり、おもしろみでもあり、ときには心底苦しいけど、発明をせずにほんとうのことを書くことはできない。心が折れたら終わりだ。心が折れませんように。毎日思っている。心が折れませんように。