ウサギはちゃんとわかっているの

 友だちが旅行で家を空けているあいだ、猫の世話をしに行くことがある。世話をしに行くという言いかたをするとなにか義務のようなニュアンスが生じるかもしれないが、わたしはほとんど猫カフェだと思ってる。贅沢な個室猫カフェ、しかも無料の。猫との交流を独占することができて、ふれあうこともできるし、飲み水の交換やトイレ掃除など、ふつう猫カフェではやらせてもらえない領域まで味わうことができる。友だちの猫は、たぶん寂しがり屋ではあるのだけど、すごく人好きな猫かというと妙に頑固なところもある、説明が難しいのだけど、気高い三歳児みたいな性格で、いっしょにいるとおもしろい。
 友だちの家にはペットカメラが設置されていて、わたしはいちおうリアルタイムで「これから入室します」「帰ります」の報告LINEを入れるようにもしているので、旅先の友だちは、見ようと思えば猫といっしょにいるわたしの様子を見ることができるんだと思う。彼女のほうは気を遣って「部屋にいるあいだはカメラはオフにしていい」と言ってくれているのだけど、カメラは作動していたほうがわたしも気が楽なのでオフにしたことはない。なにしろ他人の留守宅にひとりで上がっているわけなので、自分が急に気が変になって猫を殴りつけたりとかをしていない、ということが第三者目線からも確認できる状態になっていたほうが安心できる。
 猫の世話をしに行く機会は定期的にあるので、わたしのなかではすでにルーティンが確立されていて、部屋に入ったら猫としばらくふれあって、そののちに二か所の飲み水を交換し、トイレ掃除をして、チュールを一本食べてもらい、それからおもちゃで遊ぶ。猫がおもちゃに飽きたころに引き上げる。
 今日、とつぜん気になったのは、このペットカメラというのは音声も拾うのだろうか、ということだった。調べてみると、マイクがついているカメラとそうでないカメラ、商品としてはどちらもあるようだった。旅先の友だちに、わたしの声までが聞こえている可能性には今まで思い至らなかった。わたしはこの部屋にいるあいだ、ひっきりなしに猫に話しかけつづけているのだ。カメラ越しに姿を見られているのはいいが、猫とのおしゃべりを聞かれているのは都合が悪いような気がする。最近、いくつかトークイベントに出演した。映像配信のあるイベントだったので、トークの様子が撮影されたアーカイブ映像をわたしももらうことができた。その映像の扱いについてトークイベントでの共演相手と話したとき、自分たちがしゃべっている姿を積極的には見返したくない、という点は意見が一致したのだが、その後、彼はけっきょく映像を視界に入れない状態で音声だけを聞き返したらしい。その気持ちはまったく理解できない、わたしは音声をとりわけ聞きたくないので、音声を消して映像だけを眺めたのだった。二人合わせたら映像の全貌を確認したことになるだろうか。わたしは自分の身体に対する抵抗感より、自分の声に対する抵抗感のほうが大きいのかもしれない。それなのに、なぜ猫に向かって声を発しつづけてしまうのだろう。
 猫にとって有益だと思われる情報(あなたの家族は今夜中くらいに帰ってくるらしいよ、とか)や、猫に対する誉め言葉などももちろん口にするけれど、わたしはきのう熱海に行ってたんだけどね、とか、今こういう締め切りがあって、とか、こないだ見かけたこういうツイートがクソムカつくんだけど、とか、近況もぜんぶしゃべっていると思う。わたしは赤ちゃんや小さい子どもに対してもわりとこういうしゃべりかたをしてしまう(子どもには「クソムカつく」とかは言わないようには気をつけてる)。話の流れで急に思い出した短歌を暗唱したりもする。あのカメラが音声を拾うのかどうかを友だちに訊いてみようかしばらく迷ったけれど、「うん、実はぜんぶ聞いてたよ」と言われたらどうしていいかわからなくなるので、訊くのはやめることにした。この世にはあえて蓋をしておいたほうがいいこともある。それに、なんとなくだけど彼女はわたしがいるときのカメラ映像もとくに確認していないような気もするのだ。
 ルーティンをぜんぶ終えて帰ろうとすると、猫は部屋の奥からこちらをじっと見ていた。いまどきの飼い猫はほとんどそうだと思うけれど、この猫も完全室内飼いで、屋外の様子はほとんど知らないはずだ。わたしは「玄関のところで人は消えるってウサギはちゃんとわかっているの」と猫に向かって言った。