愛の不時着

 すばらしいドラマだったけど、みつづけるのがつらくなってしまったタイミングはいちどある。風邪がすっかり治ったタイミングだった。そもそも、韓国のドラマをいちどもみたことがなく、正直いって興味もなかったわたしが「愛の不時着」の再生ボタンを押したのは、めずらしくひどい風邪をひいて布団からぴくりとも動けなくなったのがきっかけだった。身動きがとれないのでドラマでもみたいのだけど、あまり込み入った話を追うのはしんどかった。悪いことに、ふだんはどちらかというと込み入った話を追うのが好きなのだ。視聴中の込み入ったドラマはいくつもあったけれど、そのどれにも食指が動かない状態でふと「愛の不時着」に手が伸びたのだった。話題になっているのは知っていた。みたことがないなりに今までに遠目に蓄積してきた韓流ドラマのイメージや、ドラマじゃないけど昨年みた韓国映画「パラサイト」の印象などから、韓国のドラマはわかりやすいはずだと思った。風邪を引いているときに向いてそう。
 その先入観が韓流ドラマ全般に当てはまるのかどうかはまだ判断できないものの、「愛の不時着」にかぎっては当たっていた。話がとにかく明瞭でエンタメ色が濃く、あまり働いてない頭でぼんやりと受動的に眺めていても展開がどんどん頭に流れこんできた。楽しくて、楽だった。どの登場人物も、最初の登場シーンの時点で役割や性格が顔に明記されているも同然だった。彼らはかならずその役割を裏切らない行動をした。今までに何万回もみてきたような話の断片の順列組み合わせの範囲内でしか話が展開せず、人形劇のようだった。そして、風邪をひいてぐったりした頭にはその人形劇っぽさがありがたかったのに、体調が回復した瞬間にわたしは掌を返したのだった。みつづけるのが急につらくなり、画面にむかって「人形はもういい、人間をみせろ人間を」と文句を言った。
 自由意思をもたないかのようなキャラクターたちがかぎられた選択肢のなかだけを動き回るからこそ、人間的な深みを持つキャラクターによって演出されるよりもはるかにダイナミックなかたちで物語が翻弄されうる場合があるのだと、のちにわたしは思い知ることになるのだけど、その時点ではそんなことは知る由もなかった。人形劇的なドラマをみることはすでに薄くみえている点線のうえをなぞり書きするようなもので、体調がよくなるとともにそれを二度手間のように感じはじめ、まどろこっしくなった。
 だけど、わたしはけっきょく視聴を中断しなかった。ほんのすこしの興覚めによってみつづけられなくなったドラマは山ほどある。ドラマを日常的にみるひとはみんなそうだと思うけど、わたしのなかには〈ちょっとみてやめたドラマ〉の墓場がある。このドラマをみつづけたのは、背景があまりにおもしろかったからだった(あと、天真爛漫で金持ちな女が大好きだからだ)。
 このドラマは北朝鮮と韓国の二国を舞台にしたラブストーリーで、主役のふたりは国境に引き裂かれたロミオとジュリエットのようなものだった。二つの国では、同じような顔をした人たちが、ほとんど同じ言葉を操りながら、なにもかもちがう生活を送っている、その様子がとにかく興味深かった。壁の向こうの音に耳を傾けるように、お互いに向こうの国から聞こえるかすかな音を聞きとりながら、ある意味ではほとんど無視していた。人間の生態が風土によって決定されるものではないということを直視するのは奇妙な体験だった。対照的な環境で育てられた生き別れの双子のような二つの国。わたしはこれまでこの二つの国が隣り合っていることは頭ではわかっていながら、なにか違う次元にあるような感覚を抱いていて、この両国をいっぺんに思い浮かべるには頭のなかに別々の地球儀を用意しなければならなかった。それはおそらく韓国には文化の面から、北朝鮮には政治の面から触れる機会しかなかったからだと思うけれど、ドラマのなかで登場人物たちが苦労して両国を行き来し、文化の違いに戸惑い、驚き、その溝の深さが可視化されればされるほど、わたしのなかでは両国が隣り合っていることがかえってあきらかになっていった。この雰囲気はたとえば分断されていた東西ドイツに似ているのかもしれないし、ベルリンの壁を題材にした作品も山のようにあるだろうけど、登場人物がアジア人で、しかも現代が舞台だというのは、自分自身もまたこの双子の血縁なのだという当事者意識のなかへわたしを巻き込んでいくのにも充分だった。
 最終話にかけて、ふたりの愛の不可能性はどんどん釣りあがっていった。運命の相手は手放しがたく、国境は越えがたく、祖国は捨てがたい。祖国、といえばひとことだけど、それぞれが今までの人生を傾けてきたもの、アイデンティティそのものともいえるような事象がそれぞれの国に紐づけられていて、容易には捨てられないことが強調されていく。わたしがちょっと冷ややかな気持ちでそれをみていたのは、それでもどう考えても最終的にはどちらかが〈捨てられないもの〉を捨てるしかないからで、もうすぐに捨てられるものに体重をかける気にはなれないのだった。体重をかけたほうが楽しめるのはわかっていたのだけど、捨てるものが大きければ大きいほど愛が盛り上がるような構造の話をみたくないから普段はかっこいい女が人工知能や悪の組織と戦うようなアメリカのドラマをみているのだ。ロミオとジュリエットのうちどちらが家を捨てることになるのかは意外と予想がつかなかったけれど、どっちの〈家〉にも絶対に捨ててはいけないものが含まれているから気が重かった。仮に、諸問題をぜんぶうまくかいくぐる魔法が起こって、奇跡的な大団円をむかえたとしても、いいよな、ドラマはご都合主義で、と感じる自分の気持ちが予想できた。悲劇エンドの可能性も考えた。その可能性はそもそも低そうだったけれど、悲劇エンドもそれはそれで徒労感が残るからいやだと思った。ここまでくると最終話はみなくてもいいような気もした。もうじゅうぶん楽しんだから、いいじゃない、最終話の一話前で〈ちょっとみてやめたドラマ墓場〉に葬ったって。ぐずぐず迷いながらけっきょく惰性で最終話を再生したのだった。
 話は予想外の決着をみせた。