バニシングツイン現象

 短歌にかかわる知人同士が結婚するということがときどき起こる。短歌にかぎらず、継続してかかわっている業界があるとときどき起こることなのだろうと思う。結婚したのち、多くの場合にその片方が短歌を辞めてしまうことは長いあいだわたしの関心ごとだった。もちろん、結婚なんかに関係なく、ひとは短歌を辞めるときは辞めるのだし、ふつうは辞めたひとのことをこっちはそのうち忘れてしまう。その点、配偶者が短歌をつづけていると、その配偶者という接点が残るせいで辞めてしまったひとのことも忘れがたくなる。つまり、わたしの脳内でおそらく「短歌を辞めたひと」のサンプルは「本人が短歌を辞めていて、配偶者が短歌をつづけているひと」に偏ってしまっているはずで、そのバイアスを考慮にいれずみんながみんな結婚をきっかけにして辞めたかのような言いかたをするのはアンフェアな話だと思う。だけど、それでも、ひとが結婚したのちに短歌を辞めてしまうことはわたしの関心ごとだった。わたし自身がかつて歌をつくるひとと暮らしたことがあり、ひとと歌を分けて考えることも、同一視することもどちらもあまりに難しかった記憶を反芻させられるからという理由もあると思う。そのころはその難しさをなぜかわたしの側だけに引き受けさせようとするみえない力を肌で感じたものだったし、それはたまたまわたしにとってはそれほど強力な力ではなかったものの、その経験のおかげで、同じようなみえない力はわたしの注意を引きつづける。わたしは夜景で、わたしはクリスマスツリーだ。しっている女性がひとり歌を辞めるたび、灯りがひとつ消える。
 さいきん少し考えが変わったのは、あるひとが結婚を機に短歌をつくることを辞めたとして、そのひとはべつにかならずしも犠牲者というわけではないのかもしれない、と思うようになったことだ。短歌をつくるひととの親密な生活を選択したおかげで、そのひとは短歌をつくらないかたちでの短歌との関わりかたを確保できたのかもしれない、それはあるタイプのひとにとってはとても望ましくて安らかな状態なのかもしれない、という想像が働くようになった。正直いってごくさいきんまで思いもしなかったことである。たとえば演劇にかかわるひとのすべてが役者をやりたがっているわけではない、ということに近いかもしれない。観客の目には役者しかみえなくても、姿のみえない音響係は役者に押しのけられて音響ブースにいるわけではもちろんなく、いるべき場所にいるだけなのだということ。短歌は純粋読者(=実作をせず、読むだけの人)がいないジャンルだとよくいわれる。実際には純粋読者はいないわけではなく、しかもこのところはだんだん増えてきているとも個人的には感じているのだけど、それでも、ほんとうに近くで関わろうとすると実作という意味でのプレイヤーの椅子しか用意されていないとは思う。例外的に、〈短歌を売る人〉という商業的なポジションは若干数あるけれど、これはやはり短歌というジャンルの特殊な点なのかもしれない。短歌に対する欲望とじぶんの歌をつくりたい欲望が今のところは釣り合っているわたしには感覚的には想像しづらいことだけど、実作をしたいわけではないのに短歌の近くにいたいひともいるのだということがやっと頭ではわかるようになってきた。なかには実作をしたいわけではないということがじぶんでもわかっていないひともいるかもしれない。短歌の近くに座りつづけるために、苦しい思いをして、したくもない実作をつづけているひとも。そういうだれかが短歌に対する透明人間のようなポジションを望んで手に入れたのだとしたら、それはわたしが脇から恨むことではないのだろう。
 人権の話と才能の話はしばしば矛盾するもので、いい歌をつくるひとが失われた場合、それがどんな理由であれ恨んでしまうのも事実ではあるのだけど。
 むかし、このひとが短歌の世界から消えるのはわたしはどうしても困る、という相手とこの現象について話し合っていたときに「わたしたちは結婚とかしないように気をつけたほうがいいですね」と口走ったことがある。言わずにいられなかったのだけど、そのひとはおっとりと「わたしならいつでも辞めるよ」と答えた。