家父長制

 花火買ってきまーす、とコンビニに降り立っていったはずのひとたちがしゃぼん玉を持って車に帰ってきた。この雨じゃ花火はどのみちできないからね、ということなのだけれど、この雨のなかでしゃぼん玉はできるのだろうか? 車内でしゃぼん玉をする案がいっしゅん浮上して、レンタカーの規約に「車内でのしゃぼん玉禁止」があるかどうかをだれかが確認しはじめるけれど、その案自体がしゃぼん玉のようにすぐ消えた。
 車内にもたらされたしゃぼん玉はピンク色のライトセイバーのような形状だった。あるいはコンサートなどで振るのに使う光る棒のような。息を吹き込むタイプではなく、握って振ることでしゃぼん玉を生産するタイプで、ボトルにはプリキュアの絵が印刷されていた。運転をしてくれている友人は「あなたはお父さんとお母さんが愛し合って生まれた存在なのだから……」というギャグが気に入ってずっと言っている。わたしはこんなに運転が下手なひとをみるのははじめてで、感動的だった。じぶんもいつか運転免許をとれるかもしれない、というイメージが湧いたのもはじめてかもしれない。つねづね思っていたのだけど、免許を持っているひとは運転が上手すぎないだろうか。教習所に通ったとしても、いまのわたしから地続きのわたしでは、あんなになめらかにハンドルを切って狙った場所に車体をねじこんだり、あんなにためらいなく加速したりなんてことはできるはずがないと感じる。たいていのひとは、なにか人間の深部のプログラムが書き換えられないかぎりは不可能なはずのことを身につけて教習所を出てくる。わたしはプログラムを書き換えられることには抵抗がある。これまで見聞きしてきたかぎり、教習所に通っているひとはみんな高速道路の講習をいやがるので、おそらく高速道路がプログラムの書き換えになにか関係があるのではないかと思う。彼らは講習を終えて高速道路を降りるころには講習前とは別人になっているのだ。しかし、どこかの駐車場に入ろうとするたびになにかにガコンガコンと乗りあげたり、脈絡もなく加速したり減速したり、車が駐車スペースに対して真横になったり、そういう運転をするひとの車に乗ったことで、プログラムの書き換えを拒否しても免許がとれることがわかって愉快な気持ちになってきた。なにしろ、車に乗せてもらったときには、借りたばかりのはずのレンタカーのサイドミラーがすでに片方取れていたのだ。
 雨はますます強まっていた。めざしていた貯水湖の近くには着いていたのだけど、しゃぼん玉ができそうな場所がみつからない。深夜で、豪雨なのだ。外灯も少なく、ところによっては舗装もされてなく、ところによってはほとんど前がみえないような状態で、ぐるぐると同じ場所を走った。ラブホテルだけがたくさんあるようで、過剰に明るくどこかうさんくさい建物が暗い山道に定期的に燦然とあらわれるものだから、わたしたちは化かされかけているのではないかと心配になる。砂漠で遭難しているときにみる蜃気楼はこんな感じだろうか。なんだかしらないけど他の車からしょっちゅうクラクションを鳴らされるので頭にくるけれど、それらは一秒でも早くラブホに入りたくて苛々しているひとたちなのだと思うことにする。そんなに一秒を争わなくてもね、と言うと、隣で煎餅をかじっていた友人が「20代とかなのかな」と、じぶんも20代のくせにいい加減なコメントをする。湖とラブホ以外にはなにもなさそうで、しゃぼん玉ができそうな場所がみつからない。深夜で、豪雨なのだ。仮になんでもあるような都会の真ん中にいたとしても、この時間帯のこの天候下でしゃぼん玉ができる場所はなかなかないような気がする。目指すべき場所のイメージが湧かない。
 絶望的かと思われた状況のなか、ついに発見されたのは、あるコインパーキング内に設置されている公衆トイレだった。比較的大きな公衆トイレで、トイレの前にちょっとしたスペースがあって、そこには屋根があるのだ。ほかに一台の車もないそのパーキングに車を停め、トイレの前に集まった。わたしはトイレを使いたくて中をちょっと覗いてみたのだけど、個室のどの戸にも常識では考えられない数のコバエが止まっているのをみて断念した。
 屋外であり、かつ屋根もあるという奇跡的な場所を得たものの、肝心のしゃぼん玉はなかなか難しかった。ボトル自体にプリキュアの絵が印刷されていることもあり、はじめのうちは「うまくしゃぼん玉をつくれたらプリキュアになれる」「悪を倒せる」などの設定が大流行、みんなで立派なプリキュアになるべく順番にしゃぼん玉をつくる修行をした。わたしはプリキュアはまったくみたことがないが、ないなりに志を持っていっしょうけんめい練習をした。手首の角度になかなかコツがいるのだ。腕ではなく身体全体を回転させながらしゃぼん玉をうみだす技を開発した子がいて、身体の回転にまといつく動きをするしゃぼん玉が特殊効果のようできれいだった。
 その場のノリだけで反応し、展開していくこういった遊びは、一瞬でルールが書き変わり、一瞬で設定が反転する。致命的にみんなの様子がおかしくなったのは、さっきとは真逆にしゃぼん玉が悪の象徴になってからだったと思う。ひとりが「家父長制だよ~」「ホモソーシャルだよ~」「バックラッシュだよ~」といちいち解説しながらしゃぼん玉を放ちはじめたのだ。プリキュア修行によって大量生産のスキルが向上していたため、かなりの量の大小のしゃぼん玉がきらきらと舞い散る。公衆トイレの灯りを映して虹色に揺れる。それにむらがるわたしたちは、踊り狂うように家父長制やホモソーシャルバックラッシュを割っていった。幻覚のなかの景色のようだと思った。幻覚のなかの景色だったのかもしれない。