夜景

 高層階にいる。広々としたホテルの客室だ。バスタブの蛇口からはこの場所の高度を感じさせないほど勢いよくお湯が出た。家から持ってきたバブ(庶民的!)を入れた湯舟にかなりのんびりと浸かったあと、油揚げのように分厚いバスタオルで身体を拭いて、そのまま裸で水を飲んだりキーボードを打ったりしている。じぶんの家のなかでもめったに裸でうろうろなんてしない。こんな大きな窓の近くで、カーテンを開け放ったまま裸で過ごせるのは高さゆえのことなのだ。高さとは一方的なことだ。近くに高い建物がまったくないわけではなく、たとえば二百メートルほど先にあるあのビルもおそらくホテルで、わたしと同じくらいの高さの階にも灯りがついていて、人間のいる気配がある。双眼鏡などがあれば向こうからわたしの部屋のなかまで覗けるかもしれない。そんな意味のわからない行動をする人間がいるとも思えないけれど、他人はだいたい意味のわからない行動をするというのも事実なのだ。でも、そうだとして構わないと思う。二百メートル先のホテルの宿泊客にこちらが裸でいることがうっすらわかったとして、それがわたしにとってなにか意味のある出来事だとはまったく思えないのだ。そんなことよりしばらく社会性を失わせてほしい。
 高いところからみる都会の夜景は粒子がこまかくてきれいだ。わしづかみにするとさらさらと指のあいだから零れそうな光。たとえば山の中腹から平地に広がる住宅街を臨むような種類の夜景はもうすこし光ひとつひとつの粒がたっていて、握るとぷちぷちと音を立ててつぶれそうな気がする。
 ここはみはらしがいい。遠くの光はより細かく、まるで光沢のある靄のようにみえるし、近くの光は針穴みたいにそれなりにくっきりとしている。道路や橋が動きをとめた蛇のようなシルエットで不穏に横たわっていることも光の点描が伝えてくる。暗いなかにも繊細な奥行きや陰影がある。けれど同時に、点のこまかさを描きわけることで遠近感を演出したただの一枚の絵にもみえるのだった。
 月並みな発想だけど、こういう夜景をみていると、このひとつひとつに人間の営みがあるのだ、ということをつよく考える。それは、窓の灯りの数のぶんだけそこで生活するひと、働くひとがいるのだという単純な実感でもあるのだけど、都会の灯りは種類が多く、直接的に人間を受け持っているわけではない灯りもおびただしく目に入ってくる。ビルや橋を装飾する灯りや、飛行機が建物にぶつからないようにするための灯りや、無人になっても消されない船の灯りや、用途のわからない灯りもたくさんある。そして、それらの灯りにも人間の営みがあるのだと感じるときこそ気が遠くなる。その灯りをそこに付けると決定した人物はかならず存在する。かならずだ。あの灯りの数だけ、決定がある。ほんとうに? 野生の蔦みたいに自然に繁殖したと考えるほうがよっぽど飲みこみやすいけど、そんなことはあり得ないのだ。その灯りを含むなんらかの建造物を計画したひとたちや、電熱線や半導体や硝子やプラスティックを製造するひとたちもいる。ひとつの灯りにまつわる関係者を早送りのように想像するとき、あのひとつひとつの光は、これまでそこに触れてきた手の摩擦によって生じている光のようにも思えるのだ。
 命が光らないのはおかしいでしょう。仮に命がみんなただしく光っていたら、社会とはごく自然にこの夜景とよく似たイメージで理解されているはずだと思う。こういう景色の部屋でカーテンを開けたまま消灯すると、景色が窓からせりだしてきてじぶんが中空に浮かんでいるように思える。きらきらの暗闇。さみしく、全能感をおぼえ、わたしのための一夜限りの宝石だと感じ、死の足音を聞く。膨大な量の人の営みを浴びるとき、相対的にじぶんの小ささを感じるということはわたしに関してはぜったいにない。わたしはこの光の量と渡り合ってしまう。それによってじぶんにとってじぶんがいかに肥大した存在なのかを直視させられる。そのゆがみを知ることを、こんな日には、求めてしまうのだとも思う。
 誕生日だ。裸のままで窓際に立つと、その向こうの光の分布と、硝子に淡く映る自分の姿が重なってみえる。わたしはあの光をたくさん集めたよりも大きいけれど、同時にわたしはこんなに淡いのかとも思う。三十代半ば。そろそろあともどりが難しくなってきそうだな、と今日は頻繁に考えていて、この諦念はどこからくるのだろうか。どうも生きてから日が浅いうちは生きることのあともどりができるような気がしていたらしい。