髪の毛製造機

 生産性のない生きかたを揶揄、または自嘲して「うんこ製造機」などといったりするけれど、わたしは個人的にはこの呼びかたはピンとこない。排泄物はあまりまじまじと向き合うものではなく、しかも一瞬でじぶんの視界からあとかたもなくきれいに消え去るから、なんだか実存があやふやな感じがするというか、それをじぶんが製造しているという実感に乏しいのだと思う。
 でも、生きていると部屋の床にどんどん髪の毛が発生する。床じゅうにあんなに落ちているのに、じぶんの頭にもまだ驚くほどたくさんの髪がはえている。もしもまったく掃除をしなかったら、部屋は今ごろ足首くらいまでじぶんの髪で埋まっているんじゃないかと思う。つまり、じぶんを「髪の毛製造機」だととらえるのはとても納得がいくのである。
 昨年末あたり、いろいろあってノイローゼみたいになりかけていたとき、部屋の角に吹き寄せられた髪の毛を眺めながら毎日のように「わたしは今日も髪の毛をつくっている」と考えていた。髪は三日で一ミリくらい伸びるらしい。頭部を埋め尽くす大量の毛穴からじりじりじりじりと毛を押し出す、ただそれだけのためにわたしは食べて、寝て、酸素を取り込んでいるんだと思った。脳のことは髪の毛を養う土のなかに偶然居合わせたみみずかなにかのように思えた。それから、引きこもっているとトイレットペーパーの減りが異様に速いことが気になって、トイレットペーパーの減りが速いことと、家の床に髪の毛がこんなにたくさん発生していることのあいだにはなにか相関関係があるはずだと真剣に考えたりした。自室における質量保存の法則だ。わたしは質量保存の法則が好きなのだ。たぶん質量保存の法則のことをなにか誤解しているのだろうとは思うけれど。
 排泄物は肥料になる。時代がちがえば有料で取引されていた。その事実は現代の排泄物の製造者にもすこしは自信や矜持を持たせてくれるのではないだろうか。短歌だって、時代がちがえば教養人の必修科目だったのだという記憶が現代の歌人の矜持をささえているようなところはあるのだ。でも髪の毛はあきらかになんの役にも立たないので、毎日髪の毛を製造するのはほんとうに虚しかった。
 しかし、そのころはノイローゼになりすぎていて失念していたのだけど髪の毛もいちおう役には立つのだった。ヘアドネーションという、一定の長さの髪をウィッグ用に寄付できる制度がある。先日、そのヘアドネーションのために髪をみじかく切った。切り落とす瞬間、純然たる髪の毛製造機として存在するじぶんを感じた。髪の毛をじりじりと伸ばすためにだけに身体を持つ、無名の髪の毛製造機がわたしだった。その髪がどこかでだれかの役に立つのだということへの喜びももちろんないではなかったのだけど、じぶんがこの世の無機質な部品になったかのような感覚のほうに興奮した。まるで俳句をつくるときのようだった。じぶんのことを髪の毛製造機だと思いつづけた日々は、じぶんが髪の毛製造機であること自体ではなく、でもほんとうは髪の毛製造機ではないかもしれないという疑いのほうに苦しみがあったのだと思う。
 あの日々がオセロのように今すべて裏返った、と、感慨を抱きながら、美容師さんがヘアドネーション用にきれいに整えてくれた髪束をビニール袋に入れた。発送する前にいちおう記念写真を撮ってみたのだけど、どんな角度から撮っても髪の毛の束というのはどうも薄気味悪かった。