有線

 毎日西友に行っている。白菜やレーズンやトイレットペーパーを買う。毎日ロシアによるウクライナ侵攻のことと、ウクライナ侵攻に対する反応のことと、その反応に対する反応のことと、人間の進化ということについて考えている。西友にいるあいだも考える。奇妙なのは、事態がわたしの頭のなかにしか存在しないような気がするところだ。なにひとつ目の前になく、わたしの生活に(今のところ)物理的な変化がなく、ただ、情報や言葉として受け取っているだけだからだ。情報源の大半は手のなかの小さなデバイスだ。他人と話す機会もほとんどないので、一連のことはすべて自分の妄想である可能性が捨てきれない。

 

  戦争はきっと西友みたいな有線がかかっていて透明だよ  宝川踊

 

 戦争を直接しらない世代がつくった抽象的な戦争の歌には二種類あり、その内訳は、前の戦争の残り香を嗅いでいる歌と、未知の戦争に憧れている歌だ。発する言葉なにもかも語弊がありそうなのでいちおう書くけれど、憧れというのはなにも賛美を意味せず、しばしば恐怖に近い感情だ。個人的には前者の歌はもともと好みではないんだけど、ここ数日でわたしのなかに格納されていた前者の歌のほぼすべてが機能停止した。またいつか、動き出すこともあるでしょう。宝川の西友の歌は後者だと思う。2016年に発表された時点から印象的な歌で、わたしの2010年代最大の収穫のうちの一首なのだけど、歌の意味は長年よくわからないままだった。この歌に対して「ほんとうにそうだ」と力強く感じる日がくるとは思わなかった。物理的には西友を歩いているだけの自分が、同時に情報というレイヤーでは有事の世界にいる。あるいは、有事の世界にいる自分が、物理的にはただ西友を歩いているだけである。現代を生きるというのはその透明なレイヤーがいくつも折り重なった状態を生きることだというのは知っていたつもりだったけれど、物理的な次元の絶対性を疑ったことはなかった。今まではなかったのだ。