髪の毛製造機

 生産性のない生きかたを揶揄、または自嘲して「うんこ製造機」などといったりするけれど、わたしは個人的にはこの呼びかたはピンとこない。排泄物はあまりまじまじと向き合うものではなく、しかも一瞬でじぶんの視界からあとかたもなくきれいに消え去るから、なんだか実存があやふやな感じがするというか、それをじぶんが製造しているという実感に乏しいのだと思う。
 でも、生きていると部屋の床にどんどん髪の毛が発生する。床じゅうにあんなに落ちているのに、じぶんの頭にもまだ驚くほどたくさんの髪がはえている。もしもまったく掃除をしなかったら、部屋は今ごろ足首くらいまでじぶんの髪で埋まっているんじゃないかと思う。つまり、じぶんを「髪の毛製造機」だととらえるのはとても納得がいくのである。
 昨年末あたり、いろいろあってノイローゼみたいになりかけていたとき、部屋の角に吹き寄せられた髪の毛を眺めながら毎日のように「わたしは今日も髪の毛をつくっている」と考えていた。髪は三日で一ミリくらい伸びるらしい。頭部を埋め尽くす大量の毛穴からじりじりじりじりと毛を押し出す、ただそれだけのためにわたしは食べて、寝て、酸素を取り込んでいるんだと思った。脳のことは髪の毛を養う土のなかに偶然居合わせたみみずかなにかのように思えた。それから、引きこもっているとトイレットペーパーの減りが異様に速いことが気になって、トイレットペーパーの減りが速いことと、家の床に髪の毛がこんなにたくさん発生していることのあいだにはなにか相関関係があるはずだと真剣に考えたりした。自室における質量保存の法則だ。わたしは質量保存の法則が好きなのだ。たぶん質量保存の法則のことをなにか誤解しているのだろうとは思うけれど。
 排泄物は肥料になる。時代がちがえば有料で取引されていた。その事実は現代の排泄物の製造者にもすこしは自信や矜持を持たせてくれるのではないだろうか。短歌だって、時代がちがえば教養人の必修科目だったのだという記憶が現代の歌人の矜持をささえているようなところはあるのだ。でも髪の毛はあきらかになんの役にも立たないので、毎日髪の毛を製造するのはほんとうに虚しかった。
 しかし、そのころはノイローゼになりすぎていて失念していたのだけど髪の毛もいちおう役には立つのだった。ヘアドネーションという、一定の長さの髪をウィッグ用に寄付できる制度がある。先日、そのヘアドネーションのために髪をみじかく切った。切り落とす瞬間、純然たる髪の毛製造機として存在するじぶんを感じた。髪の毛をじりじりと伸ばすためにだけに身体を持つ、無名の髪の毛製造機がわたしだった。その髪がどこかでだれかの役に立つのだということへの喜びももちろんないではなかったのだけど、じぶんがこの世の無機質な部品になったかのような感覚のほうに興奮した。まるで俳句をつくるときのようだった。じぶんのことを髪の毛製造機だと思いつづけた日々は、じぶんが髪の毛製造機であること自体ではなく、でもほんとうは髪の毛製造機ではないかもしれないという疑いのほうに苦しみがあったのだと思う。
 あの日々がオセロのように今すべて裏返った、と、感慨を抱きながら、美容師さんがヘアドネーション用にきれいに整えてくれた髪束をビニール袋に入れた。発送する前にいちおう記念写真を撮ってみたのだけど、どんな角度から撮っても髪の毛の束というのはどうも薄気味悪かった。

 

手を結ぶ

 相変わらず新居のエアコンに対して人見知りしており、なかなか付けられない。部屋が寒い。わたしは寒さには強いのでこれでもわりと生きてはいられる。が、動きが鈍くなる。じぶんの動きが鈍いことにも、その理由が寒さであることにも最近まで気づかず、部屋のなかでじっとしていた。虫のようだと思う。
 わたしは人生を無駄にするのが嫌で何年も前にこたつと手を切ったのだけど、同じ理由で今エアコンと手を結ばなくてはならない。どちらも暖房器具なのに不思議なことだけど、エアコンがオフになっている状態は、こたつがオンになっている状態に等しいということに急に気がついたのだ。虫よりすこし賢い。
 虫といえば、最近じぶん自身だけではなくみんなが虫に思える。コロナウイルスとなにか関係があるのかじぶんでもよくわからないが、昨年から急に人間を虫だと感じるようになった。道に新しくお店ができたらみんないつの間にかそこにぞろぞろ入っていくようになるのとか、食べ物が買える場所を学習してまた行くのとかが虫っぽい。
 虫だと感じているときのほうが人間への愛が高ぶるのは不思議なことである。虫同士としての仲間意識と、奇妙で愛らしい生態を観察しているのだというファーブル気分とが混ざりあい、感動で胸が詰まるような気持ちになるのだった。

引っ越し・破

 2020年の中ごろ、引っ越し先を探した。
 選択肢がありすぎると頭がおかしくなりそうだったので、まずは探すエリアをそのとき住んでいたマンションから歩いていける範囲に限定した。近所なら引っ越しが楽そうだし、生活圏を変えなくてよさそうな点に安心感があった。生活の変化を最小限にしたかったのだ。
 わたしの探しかたはこうである。
 まず、賃貸情報サイトにエリアと条件を入力して、めぼしい物件をみつける。最初に設定した三万円程度という家賃は東京ではかなり厳しい条件だけど、わたしの住む小平市は東京とはいえ多摩地区だし、大学が多いエリアだから貧乏学生向けの物件も多い。小綺麗な部屋や広い部屋こそ望めなくても、それなりの数の物件がヒットする。そこから、譲れない条件を入力して絞り込む。バストイレがあること、二階以上、ある程度料理ができそうな台所、交通量の多い道路に面していないこと。じぶんの荷物が一般的なワンルームにはとても入りきらなさそうなことはいったん無視した。
 候補をピックアップしたら、次の段階としては空室状況を問い合わせたり不動産屋に足を運んだりするものなのかもしれないが、わたしは根暗なのでそんな大胆なことはできなかった。なので、代わりに情報サイトに掲載されている情報と、グーグルマップを凝視した。間取り図と平米数から部屋の面積を感じ、どこで寝て、どこに座るか想像し、想像のなかで立ち上がってトイレに行ってみる。築年数や工法から、壁の薄さや暑さ寒さ、まわりから聞こえる生活音を推測してみる。建物自体の方角や、募集中の物件が建物のなかのどこに位置するのかを特定して、窓からの眺めを思い描く。地図をみながら駅からの道を心のなかで歩いてみる。最寄りのコンビニまでを心のなかで歩いてみる。最寄りのスーパーまで心のなかで自転車を飛ばしてみる。ストリートビューや航空写真を参考に景色を彩色する。休日の過ごしかたをイメージする。最寄りの喫茶店はここで、図書館はここだ。都内に出るときは、最寄りじゃなくてこっちの駅を使うのがいいかもしれない。そうしているうちに、物件はだんだん肉付けされて具体性が立ち上がってくる。駅や周辺施設との位置関係が、俯瞰的にも、実際に歩いているようにも把握できるようになる。
 頭のなかでその物件が育ちきったら次の段階に移行する。次の段階としてはさすがにそろそろ空室状況を問い合わせたり不動産屋に足を運んだりするものなのかもしれないが、わたしは根暗なのでそんな大胆なことはできなかった。代わりに、勝手に現地に足を運ぶことにした。なにしろ候補の物件はすべて自宅から徒歩圏にあるのでアクセスは簡単だった。このときのコツとしては、地図を参照しないことである。手ぶらで行くのだ。ここに至るまでに地図のうえでさんざんなぞった道を、答え合わせのように実際に歩いてみる。目当ての物件を含む集合住宅を外から眺めながら、どの窓が〈わたしの家〉なのかをたしかめる。
 これが、ほんとうに楽しかった。それまでは自分のなかであくまでバーチャルな位相にあった道や建物が、現実の世界に三次元的に出現するのである。空想世界のこうした具現化をゆめみたことのない子どもがいるだろうか。はじめて来るにもかかわらずよく知っている道を歩くときの不思議な感覚は、まるで夢のなかでよく訪れる、夢のなかにしかないはずの場所が現実にあらわれたかのようだった。しかしまた同時に奇妙な現実感の欠如もあり、わたし自身がペグマンになってじぶんの脳内を歩いているのではないかと疑いたくもなるのだった。
 この新しい遊びにわたしはけっこう夢中になった。地図と道が一致するのは当たり前のことなのに、地図のとおりの道がひらけるたびにいつも興奮した。
 忘れられない物件はいくつもある。行きつけのコメダ珈琲店の裏庭のような位置にあるぼろぼろのアパート。廃業した材木屋の二、三階が住居になっている古いマンション。家賃を低く設定するとなにかしらの欠点がある物件しか出てこないわけだけど、その欠点の種類は意外と多彩なものだった。平均的に何かが少しずつ足りない物件、少し狭く少し暗く少し古く少し辺鄙で少し汚い、という感じの物件よりも、欠点の一点突破のような物件を魅力的に感じた。物件としてのクセがつよければつよいほど心に食い込むのだった。なかでも印象に残っているのは、小さな雑居ビルの四階に入っている住居だった。ある駅前のささやかな商店街のなかのビルだ。前後を線路と道路に挟まれ、左右をそれぞれ隣のビルに挟まれた窮屈な空間に建っていた。一階から三階にはすべて居酒屋やスナックなどの飲食店が入っていて、最上階の四階もおそらくもともとは商業施設が入っていたのを、むりやり住居用に改装したものと思われる。エレベーターなしの四階は店舗には不利だったのかもしれない。
 写真をみるかぎり室内は真っ白の洋風な内装にリフォームされていて、ちょっと安っぽい雰囲気はあるもののヨーロッパのアパートのようだった。だけど、ビル自体はかなり古くて外観も小汚い。写真だけみていると中と外が頭のなかでうまく一致しない。そのそぐわなさも含めてなんだか秘密の屋根裏部屋のようだった。小さなビルなので、ひとつのフロアにテナントはそれぞれひとつしか入っておらず、四階はその住居ひとつだけだった。つまりそこに住んだ場合、そのビルで寝起きする唯一の人間になることと、最上階を独占できることが約束されていた。
 ここに住んだらビルの主になったような気分になるだろうなあ!
 階下からは酔っ払いの話し声やスナックのカラオケなどが遅くまで聞こえてくるだろう。外からは電車の音や踏切の音がするはずだ。それら都市的な雑音に包まれながら塔のてっぺんのような孤独な場所で眠る生活はすくなからず魅力的に思えた。現実的にはエレベーターなしの四階は引っ越しがあまりに大変そうだし、飲食店上の物件は虫害が多いというし、雑音は三日で嫌になりそうだし、住むことを実際に検討するには難のほうが多い物件だったのだけど、塔のてっぺんに住むというイメージにとらわれてしまったわたしはうっとりしながらそのビルの前を何回も往復した。
 しばらくしたら塔のてっぺんに住むことに飽きたので、次は閑静な住宅街の奥地にある小さなアパートを検討することにした。和室というのもまたいいなと思った。大通りから一本入り、両側におもに一戸建てが並ぶしずかな道を心のなかで歩く。こんなことを続けていてもほんとうの引っ越し先は永遠にみつからないのだということには気づかないまま、百万年の時が流れた。

引っ越し・序

 2020年の春ごろ、引っ越しをする必要に迫られた。
 もともとは実家だったマンションにわたしはわりと長くひとりで住んでいた。そのマンションを売るから退去してほしい、という連絡が父親からきたのだった。
 こちらは家賃を払っておらず、向こうにとっては所持しているだけで経費がかかっていくマンションである。わたしはどうも分が悪かった。ひとりで住みつづけるには広すぎる家であることも前々からあきらかだった。ただ、家賃という支出がないことでどうにか持ちこたえていたわたしの生活のデザインを変更するには、2020年の春というのは最悪のタイミングだった。もともと貯金はないけれど、月収がとつぜん著しく減って、向こう数ヶ月食べていけるのかが深刻に怪しくなっていた。退去どころか十万円送ってほしいくらいだった。
 ご存知かもしれませんが東京は新型コロナウイルスの影響でちょっと大変で、と、メールを送った。この状況が落ち着くまで猶予をいただけませんでしょうか?
 あっさりと「コロナは長引きそうでキリがないから待っていられない」という返事がきたのが一回目の緊急事態宣言の発令と同時くらいだった。返事がきたときスーパーで買い物をしている最中だったわたしは、世界と日本と東京と自分の生活の先行きの暗さにくらくらしてしばらく外に座り込んだ。ちょうどそのころ、増えはじめていた生活困難者に対して、家だけは、住所だけは失わないで、という呼びかけをよくみかけるようになっていた。退去は今は無理だということをどうにか説得しなければ、とひとたびは思ったものの、けっきょくその後すぐに話を打ち切ったのは、こちらの交渉を却下されることを自分の耳がいちいち「あなたの生死には関心がない」という意味に聞き取りはじめることがこわかったからだった。2020年の春の東京はそういう状況だったと思う。
 はい、新居を探します、と、なんのあてもないまま返事をしたきり、わたしは動けなくなった。どう考えても、どうしても引っ越しをしたくなかった。お金がなかったし、家族の跡地が消えるのもおそろしかった。あるいは、家族の跡地が消えるのがおそろしかったし、お金もなかった。その二つの理由はときには半々に思えたし、ときには片方だけが本音で、もう片方は本音を正当化したり補強したりするための自分に対する建前なのだとも思えたけれど、そうだとしてどちらが本音のほうなのかが自分でもわからなかった。また、ときにはどちらも無駄にじぶんを縛り付けるものにも思えた。だけど、引っ越しの初期費用がないのはもちろん、わたしの平時の収入でも固定支出を増やせる余裕はなかったし、この家がなくなると妹が帰ってこられなくなるような気がすることもこわかった。
 父親からはときどき新居探しの進捗を訊ねる連絡がきた。引っ越したくない気持ちが引っ越し自体のハードルをどんどん引き上げていって、一歩目を踏み出す前からわたしのなかは、無理だ。とても無理だ、という気持ちでいっぱいになっていた。
 ある女の子がしばらくうちに泊まっていったのはそのころのことだった。事情があって今まで住んでいた家に住みつづけられなくなり、新しい住まいを確保するまでのあいだの仮住まいが必要になった子だった。最終的には二週間弱滞在した彼女が無事に新しい家に引っ越していった直後に、どういうわけかうちには別の女の子が泊まりにきた。彼女も事情があって今まで住んでいた家に住みつづけられなくなり、新しい住まいを確保するまでのあいだの仮住まいを必要としていた。リプレイのようにその子も二週間弱滞在し、新しい家に引っ越していった。
 一人目の子と二人目の子のあいだにはとくに相関関係はなく、こんな珍しい理由の客がどうして立て続けにやって来るのかわけがわからなかったけれど、なんだか偶然のようには思えなかった。じっさい、偶然ではなかったと思う。もっとも現実的な解釈は、このころ全世界で似たような出来事が起きていたのではないか、と想像することである。世の中では「コロナ離婚」という耳慣れない言葉がささやかれはじめていた。うちに滞在したふたりは、どちらの事情にもコロナウイルスは直接的には関係なく、どちらも離婚などでもなかったけれど、世の中にある関係性は婚姻だけではないし、さまざまな現象の原因と結果のすべてがわかりやすく結びつくわけでもない。社会に大きな負荷がかかるとき、そのしわ寄せが弱者にたどりつくころには原形をとどめていない場合も多いはずだ。昨年から今年にかけては、どれほどの人が「これはパンデミックのせいなのだ」と気づきもしないままに生活を失ったのだろうかと思う。
 だけど、わたし自身の解釈はもうすこしロマンティックかつ自分本位なもので、彼女たちのことを、運命がわたしに出してくれた助け舟だったのだと思っている。
 当時のわたしは正直言って自分の問題で精いっぱいだったので、彼女たちに対して、なにもしなかった。二回とも、緊急避難的に駆け込んできた子がけっきょくなし崩し的にしばらく滞在していくのをぼおっと眺めていただけだった。愚痴に耳を傾けたりもしなかったし、ご飯をつくってあげたりもしていない。励ましたり、なにかを手伝ったりもしなかった。たぶんお茶の一杯を淹れたことすらなかったんじゃないか。勝手にマイペースにふだん通りの生活を送るわたしをよそに、彼女たちはなんかびっくりするほどタフだった。さっさと不動産屋に行き、さっさといくつもの内見をまわり、さっさと新居を契約して、あっという間にうちから消えた。
 なんだか竜巻のようだったけれど、この竜巻のエネルギーに巻き込まれていけばわたしにも同じことができるのかもしれない、とぼんやり感じたことを覚えている。僥倖だったと思う。なにかに巻き込まれることくらいしかわたしにできそうなことは残っていなかった。彼女たちの動きは、言わばわたしがとるべき行動の早回しのシミュレーターだった。世の中には親切な不動産屋もいることも、フリーターでも家が借りられることも、人間には引っ越しができることも、二万円台でまあまあ住めそうなアパートがあることも、ぜんぶ目の前でみせてもらった。二人目の子が新居に落ち着いて、「ベッドを買うんだけど、色で迷ってる」と連絡をくれるころには、わたしはどうにかじぶんの新居を探しはじめていた。
 彼女たちはもしかすると間違ってわたしに感謝したりしているかもしれないけれど、わたしが、助けられた。くらくらして座り込んだスーパーの外の暗がりから、腕をつかんで、引っ張ってもらったのだった。
 ふたりはぜんぜんタイプが違って、一人目はとにかく物静かだった。わたしが深夜に帰ると、すでにぴったりと閉ざされた個室のドアが彼女がもう就寝していることをしらせた。冷蔵庫のなかにノンアルコールビールが現れたり消えたりした。黙ってゴミを出しておいてくれた。二人目はあどけなくて、わたしがどんなに遅く帰っても部屋からぴょこっと顔を出して「おかえりなさい」とにこにこした。それから数時間は台所の床に座っておしゃべりをするのが常で、ちょっとしたかわいいお菓子や変なお菓子をよく買ってきてくれた。
 ふたりが口をそろえて言っていたことがある。この家、夜中にときどき窓の外を大声で歌いながら通り過ぎる人いますよね?
 たしかにいるんだけど、道路にはたまにいるものだと思っていた。珍しいの?

引っ越し・急

 2020年の終わりごろ、引っ越しをした。
 子どもの頃は比較的引っ越しが多い生活を送っていたような気がするが、大人になってから自分ひとりという単位で引っ越しをするのははじめてだった。ずっと一ヶ所に住んでいたというわけでもなく、十代の後半から10年くらいはあちこちふらふら移り住んでいたのだが、そのときはじぶんの荷物の大半も住民票も親の家に置いたままでよそを転々としていたので、その生活のなかでの住居の変更は引っ越しというよりは旅のようなものだった。ふざけていたわけではなく、そのころにはそのころなりの事情があったのだ。
 旅のように身軽に住居を移すことを身体がおぼえていたせいか、あるいは自分が主体性を持たなくていい子どものころの引っ越しの記憶があるせいか、わたしは引っ越しをすこし甘くみていたような気がする。引っ越しとは、要するに移動のことだと思っていた。あるいは圧縮と解凍。あっちでぎゅっと荷造りして運んだものを、こっちでぱっと開けば、元通りの生活がはじまるのだと考えていた。そのイメージが間違っていたことを悟ったのは、なんだか窮地に陥ってからだった。
 今まで住んでいたマンションから二キロ程度の場所に新しくアパートを借りた。距離的には近いわけだし、新居の契約から旧居を引き払うまでの二重期間がわりと長くとれたので、引っ越しは比較的簡単なように思えた。ちょっとずつ片づけて、ちょっとずつ荷物を運び、飛び石を渡るときのように、気をつけながらゆっくり軸足を移していけばいいのだ。この引っ越しには生活の縮小という側面もあった。旧居は60平米ある3DKで、新居は20平米の1Kだ。面積が約三分の一になるのだから、引っ越し以前に大幅に持ち物を減らす必要があり、うかつに一気に荷物を運び込んでしまったら大惨事になることは目にみえていた。
 実際、身内の車で大きい荷物を運ぶ機会を二回ほど持ったほかは、徒歩と自転車でこつこつと荷物を移していった。
 自転車の前かごに枕を積んで真夜中のしずかな小平市を走った。
 自転車の前かごにやかんを積んで真夜中のしずかな小平市を走った。
 自転車の前かごに脚立を積んで真夜中のしずかな小平市を走った。
 うまくいっているかのように思えたのだけど、自分の生活する場所が消えてしまったことに気づいたのは11月くらいのことだった。ある日、自分がどこに帰ればいいのかわからなくなった。旧居にはもう血が通っていなかった。生活に必要な荷物はだいたい運び出しきって、不用品を一ヶ所に集めた家はがらんとしてすでに生活感を失っていた。洗濯機の跡地や、本の山の跡地が変色している。しかし、新居のほうはぎっしりと高く段ボール箱が積み上がり、その隙間にどうにか押し広げた布団の上だけがわたしの過ごせる場所だった。荷ほどきをしようにも荷ほどきをする場所がない。本の減らし方が甘かった。あきらかに部屋の容量を超えた荷物をすでに持ち込んでしまっていた。旧居は廃墟で、新居は倉庫だった。ゆっくり軸足を移そうとしているうちに石がふたつとも沈んでしまったのだ。
 引っ越しとは、移動ではない。引っ越しとは、破壊と創造なのだとそのときに思った。今まで住んでいた場所を自らの手で破壊する、その衝撃が手に残っているうちに反動を利用して新しい環境を創造しなければいけなかったのだ。わたしはのろのろしているうちに破壊と創造のはざまに落ちてしまったようだった。
 そのころ、原稿が書けなくなった。人は、家がないと原稿が書けないのだ。これは個人的にはかなり意外なことだった。なぜならわたしはもともと外で原稿を書く習慣があるからだ。書く場所についてはさまざまな流派があり、家でしか書けない人、外でしか書けない人、その両刀使い、静寂が必要な人、ざわめきが必要な人、いろいろだと思うけれど、わたしは完全に外派で、カフェやファミレスで生活用品がなにも載っていない広い机が「書け」と圧力をかけてこないと書けない。
 だから逆に引っ越しの影響はあまりないはずだと考えていた。寝るために帰るだけの住居がどんな状態だろうと、普段通りのカフェやファミレスがあれば、すくなくとも普段通りには書けるものだろうと。それが、一行書くだけでほんとうに体力を使い果たして息切れする感じになってしまった。一行書ききれずに、単語をぶつぶつ置くだけで数時間茫然とすることもしばしばだった。手書き派だったら「ペンがとつぜん石器のように重くなった」と譬えたと思う。
 散文を書くときにせよ、作品を作るときにせよ、自分の言葉に対する信用がある程度必要だと思うけれど、このころはその信用を完全に失っていたと思う。じぶんの書く言葉の行間から響く「家がない人間の言うことなど信用できない」という声を聞きつづけた。自分にとって「外」とは相対的なものであることを思い知らされた。つまり、喫茶店もファミレスもみんな「反・家」なのだ。家がなければ定義できない。
 旧居はもともと家族で住んでいた家で、家族が最大で4人か5人は住んでいたと思うけれど、そこからぼろぼろと欠けていき、わたしと弟がふたりで暮らすスイートな数年があったあとに、わたしひとりになった。だから、とっくに崩壊して存在しない家族の、だけど、幻影のようなものが家にまだ宿っていて、わたしにとって旧居を離れることはその幻影とはっきり決別することだった。物理的な「家」と象徴的な「家」の二重写しの喪失に直面したことが、わたしに言葉の出所を失わせていたと思う。
 それから時間が経ち、新しい年を迎え、わたし自身のコンディションはすこし回復した。だけど、まだ段ボール箱の隙間に寝ている。雨戸を閉めっぱなしでいちども開けていない。備え付けのエアコンがどうも自分のものだと思えなくて使えない。今いちばん不安なのは、自分がそれでもすこしずつ新しい部屋に慣れてきていることだ。部屋の段ボール箱たちは今はまだ「ここは仮の置き場所」ということをわきまえた表情をしているけれど、このままわたしがくつろいでしまうと、段ボール箱たちもこのまま定着してしまうと思う。開封されずに、積みあがったまま。山や崖が地形の一部であるように、わたしたちももともとこの部屋の一部でしたよ、と言わんばかりの態度で。このごろわたしは積まれた箱たちをテーブルや棚などの代わりとして便利に使いはじめていて、なんだか嫌な予感がする。

 

有限

 弟とは長い付き合いで、それなりに理解しあっているきょうだいのつもりでいるのだけど、ときどきほんとうになにを言っているのかわからなくなることがある。先日、弟の家からおさがりの冷蔵庫が運ばれてきた。シルバーでツードアのなんの変哲もないコンパクトな冷蔵庫なのだけど、よくみると扉に刻印されたメーカーのロゴの上に「有限」という言葉が書かれている。さらによくみると、その有限という文字はマジックで手書きされているようにみえた。
 直感的には「有限会社」の略のような気がしたけれど、なぜ弟が個人的に使っていた冷蔵庫が有限会社に関係があるのかよくわからない。深く気にせず使いはじめてはみたものの、やっぱりちょっと気になったので弟に会ったときに聞いてみた。
「もらった冷蔵庫なんだけどさ、有限、って字が書いてあるよね?」
「ああ、うん、最近さ、新しい冷蔵庫を買ったじゃない?」
 弟は大きい冷蔵庫を買ったはずだ。彼が冷蔵庫を新調するタイミングでわたしのほうは狭い家に引っ越すことになり、コンパクトな冷蔵庫が必要になったので、弟の手元で不要になる小さい冷蔵庫をちょうどよく譲ってもらったのだ。
「130リットルから300リットルに買い換えたら、あまりにストレスなくどんどん食べ物が入るから、この冷蔵庫は無限冷蔵庫だなと思って、新しいやつを無限冷蔵庫って呼ぶことにしたんだよね」
 言っていることはわかる。わたしの側は逆に今まで使っていた400リットルの冷蔵庫から130リットルの冷蔵庫に縮小されたので、空間のやりくりにだいぶ苦労している。400リットルというのはファミリー向けのサイズで、一人暮らしで400リットルを使っているひとはあまりいないと思うが、それでもべつに場所が余って仕方ないということもなかった。冷蔵庫とはそういうものだと思う。スペースがあればあるだけ入れるものはある。わたしは食べ物だけではなく、時計とか原稿とか演劇のチケットとかいろいろなものを入れていた。夏には自分を入れたいくらいだった。
「それで、こっちが無限冷蔵庫ってことは、直子に譲るほうは有限冷蔵庫だ、と思って」
「うん」
「だからそう書いといた」
「うん?」

 

夜景

 高層階にいる。広々としたホテルの客室だ。バスタブの蛇口からはこの場所の高度を感じさせないほど勢いよくお湯が出た。家から持ってきたバブ(庶民的!)を入れた湯舟にかなりのんびりと浸かったあと、油揚げのように分厚いバスタオルで身体を拭いて、そのまま裸で水を飲んだりキーボードを打ったりしている。じぶんの家のなかでもめったに裸でうろうろなんてしない。こんな大きな窓の近くで、カーテンを開け放ったまま裸で過ごせるのは高さゆえのことなのだ。高さとは一方的なことだ。近くに高い建物がまったくないわけではなく、たとえば二百メートルほど先にあるあのビルもおそらくホテルで、わたしと同じくらいの高さの階にも灯りがついていて、人間のいる気配がある。双眼鏡などがあれば向こうからわたしの部屋のなかまで覗けるかもしれない。そんな意味のわからない行動をする人間がいるとも思えないけれど、他人はだいたい意味のわからない行動をするというのも事実なのだ。でも、そうだとして構わないと思う。二百メートル先のホテルの宿泊客にこちらが裸でいることがうっすらわかったとして、それがわたしにとってなにか意味のある出来事だとはまったく思えないのだ。そんなことよりしばらく社会性を失わせてほしい。
 高いところからみる都会の夜景は粒子がこまかくてきれいだ。わしづかみにするとさらさらと指のあいだから零れそうな光。たとえば山の中腹から平地に広がる住宅街を臨むような種類の夜景はもうすこし光ひとつひとつの粒がたっていて、握るとぷちぷちと音を立ててつぶれそうな気がする。
 ここはみはらしがいい。遠くの光はより細かく、まるで光沢のある靄のようにみえるし、近くの光は針穴みたいにそれなりにくっきりとしている。道路や橋が動きをとめた蛇のようなシルエットで不穏に横たわっていることも光の点描が伝えてくる。暗いなかにも繊細な奥行きや陰影がある。けれど同時に、点のこまかさを描きわけることで遠近感を演出したただの一枚の絵にもみえるのだった。
 月並みな発想だけど、こういう夜景をみていると、このひとつひとつに人間の営みがあるのだ、ということをつよく考える。それは、窓の灯りの数のぶんだけそこで生活するひと、働くひとがいるのだという単純な実感でもあるのだけど、都会の灯りは種類が多く、直接的に人間を受け持っているわけではない灯りもおびただしく目に入ってくる。ビルや橋を装飾する灯りや、飛行機が建物にぶつからないようにするための灯りや、無人になっても消されない船の灯りや、用途のわからない灯りもたくさんある。そして、それらの灯りにも人間の営みがあるのだと感じるときこそ気が遠くなる。その灯りをそこに付けると決定した人物はかならず存在する。かならずだ。あの灯りの数だけ、決定がある。ほんとうに? 野生の蔦みたいに自然に繁殖したと考えるほうがよっぽど飲みこみやすいけど、そんなことはあり得ないのだ。その灯りを含むなんらかの建造物を計画したひとたちや、電熱線や半導体や硝子やプラスティックを製造するひとたちもいる。ひとつの灯りにまつわる関係者を早送りのように想像するとき、あのひとつひとつの光は、これまでそこに触れてきた手の摩擦によって生じている光のようにも思えるのだ。
 命が光らないのはおかしいでしょう。仮に命がみんなただしく光っていたら、社会とはごく自然にこの夜景とよく似たイメージで理解されているはずだと思う。こういう景色の部屋でカーテンを開けたまま消灯すると、景色が窓からせりだしてきてじぶんが中空に浮かんでいるように思える。きらきらの暗闇。さみしく、全能感をおぼえ、わたしのための一夜限りの宝石だと感じ、死の足音を聞く。膨大な量の人の営みを浴びるとき、相対的にじぶんの小ささを感じるということはわたしに関してはぜったいにない。わたしはこの光の量と渡り合ってしまう。それによってじぶんにとってじぶんがいかに肥大した存在なのかを直視させられる。そのゆがみを知ることを、こんな日には、求めてしまうのだとも思う。
 誕生日だ。裸のままで窓際に立つと、その向こうの光の分布と、硝子に淡く映る自分の姿が重なってみえる。わたしはあの光をたくさん集めたよりも大きいけれど、同時にわたしはこんなに淡いのかとも思う。三十代半ば。そろそろあともどりが難しくなってきそうだな、と今日は頻繁に考えていて、この諦念はどこからくるのだろうか。どうも生きてから日が浅いうちは生きることのあともどりができるような気がしていたらしい。