愛の不時着

 すばらしいドラマだったけど、みつづけるのがつらくなってしまったタイミングはいちどある。風邪がすっかり治ったタイミングだった。そもそも、韓国のドラマをいちどもみたことがなく、正直いって興味もなかったわたしが「愛の不時着」の再生ボタンを押したのは、めずらしくひどい風邪をひいて布団からぴくりとも動けなくなったのがきっかけだった。身動きがとれないのでドラマでもみたいのだけど、あまり込み入った話を追うのはしんどかった。悪いことに、ふだんはどちらかというと込み入った話を追うのが好きなのだ。視聴中の込み入ったドラマはいくつもあったけれど、そのどれにも食指が動かない状態でふと「愛の不時着」に手が伸びたのだった。話題になっているのは知っていた。みたことがないなりに今までに遠目に蓄積してきた韓流ドラマのイメージや、ドラマじゃないけど昨年みた韓国映画「パラサイト」の印象などから、韓国のドラマはわかりやすいはずだと思った。風邪を引いているときに向いてそう。
 その先入観が韓流ドラマ全般に当てはまるのかどうかはまだ判断できないものの、「愛の不時着」にかぎっては当たっていた。話がとにかく明瞭でエンタメ色が濃く、あまり働いてない頭でぼんやりと受動的に眺めていても展開がどんどん頭に流れこんできた。楽しくて、楽だった。どの登場人物も、最初の登場シーンの時点で役割や性格が顔に明記されているも同然だった。彼らはかならずその役割を裏切らない行動をした。今までに何万回もみてきたような話の断片の順列組み合わせの範囲内でしか話が展開せず、人形劇のようだった。そして、風邪をひいてぐったりした頭にはその人形劇っぽさがありがたかったのに、体調が回復した瞬間にわたしは掌を返したのだった。みつづけるのが急につらくなり、画面にむかって「人形はもういい、人間をみせろ人間を」と文句を言った。
 自由意思をもたないかのようなキャラクターたちがかぎられた選択肢のなかだけを動き回るからこそ、人間的な深みを持つキャラクターによって演出されるよりもはるかにダイナミックなかたちで物語が翻弄されうる場合があるのだと、のちにわたしは思い知ることになるのだけど、その時点ではそんなことは知る由もなかった。人形劇的なドラマをみることはすでに薄くみえている点線のうえをなぞり書きするようなもので、体調がよくなるとともにそれを二度手間のように感じはじめ、まどろこっしくなった。
 だけど、わたしはけっきょく視聴を中断しなかった。ほんのすこしの興覚めによってみつづけられなくなったドラマは山ほどある。ドラマを日常的にみるひとはみんなそうだと思うけど、わたしのなかには〈ちょっとみてやめたドラマ〉の墓場がある。このドラマをみつづけたのは、背景があまりにおもしろかったからだった(あと、天真爛漫で金持ちな女が大好きだからだ)。
 このドラマは北朝鮮と韓国の二国を舞台にしたラブストーリーで、主役のふたりは国境に引き裂かれたロミオとジュリエットのようなものだった。二つの国では、同じような顔をした人たちが、ほとんど同じ言葉を操りながら、なにもかもちがう生活を送っている、その様子がとにかく興味深かった。壁の向こうの音に耳を傾けるように、お互いに向こうの国から聞こえるかすかな音を聞きとりながら、ある意味ではほとんど無視していた。人間の生態が風土によって決定されるものではないということを直視するのは奇妙な体験だった。対照的な環境で育てられた生き別れの双子のような二つの国。わたしはこれまでこの二つの国が隣り合っていることは頭ではわかっていながら、なにか違う次元にあるような感覚を抱いていて、この両国をいっぺんに思い浮かべるには頭のなかに別々の地球儀を用意しなければならなかった。それはおそらく韓国には文化の面から、北朝鮮には政治の面から触れる機会しかなかったからだと思うけれど、ドラマのなかで登場人物たちが苦労して両国を行き来し、文化の違いに戸惑い、驚き、その溝の深さが可視化されればされるほど、わたしのなかでは両国が隣り合っていることがかえってあきらかになっていった。この雰囲気はたとえば分断されていた東西ドイツに似ているのかもしれないし、ベルリンの壁を題材にした作品も山のようにあるだろうけど、登場人物がアジア人で、しかも現代が舞台だというのは、自分自身もまたこの双子の血縁なのだという当事者意識のなかへわたしを巻き込んでいくのにも充分だった。
 最終話にかけて、ふたりの愛の不可能性はどんどん釣りあがっていった。運命の相手は手放しがたく、国境は越えがたく、祖国は捨てがたい。祖国、といえばひとことだけど、それぞれが今までの人生を傾けてきたもの、アイデンティティそのものともいえるような事象がそれぞれの国に紐づけられていて、容易には捨てられないことが強調されていく。わたしがちょっと冷ややかな気持ちでそれをみていたのは、それでもどう考えても最終的にはどちらかが〈捨てられないもの〉を捨てるしかないからで、もうすぐに捨てられるものに体重をかける気にはなれないのだった。体重をかけたほうが楽しめるのはわかっていたのだけど、捨てるものが大きければ大きいほど愛が盛り上がるような構造の話をみたくないから普段はかっこいい女が人工知能や悪の組織と戦うようなアメリカのドラマをみているのだ。ロミオとジュリエットのうちどちらが家を捨てることになるのかは意外と予想がつかなかったけれど、どっちの〈家〉にも絶対に捨ててはいけないものが含まれているから気が重かった。仮に、諸問題をぜんぶうまくかいくぐる魔法が起こって、奇跡的な大団円をむかえたとしても、いいよな、ドラマはご都合主義で、と感じる自分の気持ちが予想できた。悲劇エンドの可能性も考えた。その可能性はそもそも低そうだったけれど、悲劇エンドもそれはそれで徒労感が残るからいやだと思った。ここまでくると最終話はみなくてもいいような気もした。もうじゅうぶん楽しんだから、いいじゃない、最終話の一話前で〈ちょっとみてやめたドラマ墓場〉に葬ったって。ぐずぐず迷いながらけっきょく惰性で最終話を再生したのだった。
 話は予想外の決着をみせた。

 

非・パフェ派のひとたちに送ったメール

☽☽さん、❅❅さんへ

 

こんにちは。土曜日に遊ぶ件ですが、さっきのメールでは☽☽さんの案に乗っかっただけになっちゃったので、別の案をちょっとだけ置いておきます。

 

急にまじめにパフェの話をはじめるのですが、☽☽さんはパフェの存在意義があまりわからない、非・パフェ派だと前にちらっとお聞きしました。
(嫌いというわけではなさそうだったので、アンチ・パフェ派とは区別します)
それ以来、非・パフェ派のひとを説得したい場合、どういう筋でパフェのことをプレゼンすればいいのかというのをずっと考えていたのですが、おおまかに、

 

①パフェは使われるマテリアルの種類が多く、さまざまな食感や味を少しずついっぺんに食べられるので、お菓子の要素の小宇宙的な魅力がある
②パフェはいい果物をおいしく味わうのに最良の形態である

 

の二つが考えられるなと思いました。そして、直感的に、☽☽さんは②で押したほうがいいような気がしています。

 

果物を本気でもてなしているパフェを食べると、「これが果物のほんとうのあるべき姿であり、わたしが今まで果物だと思って食べていたのは〈素材〉だったのでは?」という気持ちになります。果物のケーキもおいしいけど、ケーキは油や粉のうまみが果物とわたりあってしまうため、果物の優位性があまりないような気がします。グラスがあるために自ら形を保つ必要がなく、占めようと思えばかなりの割合を果物が占められるパフェは、理想的な果物の器です。

 

わたしが今までに果物の扱いがうまいと感じた東京のパフェ屋に、門前仲町のf 、吉祥寺のW、四谷三丁目のFなどがあります。
このうち、ひとつめのfは営業が不安定で、行っても開いてたり開いてなかったりするのでちょっと除外して、バトミントンができる場所というのも併せて考えると、二つ目のWのある吉祥寺には井の頭公園があり、三つ目のFからは新宿御苑まで歩けます。新宿御苑はたしかちょっと有料だけど。
Wはパフェ屋というかフローズンヨーグルトの店なのですが、味がさっぱりしてるので夏向きかもしれない。Fはとにかく果物の純度が高い。

 

以上のような理由から、パフェを軸にして考えると、吉祥寺や四谷なども選択肢に入れられるかもしれないと思いました。ご検討よろしくお願いします。

 

平岡

課題

 湿気は苦手だ。
 乾燥や暑さや低気圧や雷や西日や蟻や掃除やミャンマー料理や大晦日や発泡スチロールやその他あらゆるものが苦手だが、とにかく湿気は苦手だ。毎日じめじめしているとだんだん身体からカビが生えるイメージが湧いてくる。外を歩くとき服と身体のあいだが不愉快にべたっとしていると、もうすでに身体にカビが生えていることを確信する。皮膚を熱湯消毒したい。熱風で乾かしたい。カビなどが生えたことのないまっさらな身体に総とっかえしたい。気持ちが追いつめられてくると、浴室の壁にカビが生えているのをみるたびに妙に安心してしまう。カビがわたしの妄想の産物ではないことがわかるからだ。
 人類はどうして湿気を克服できないんだろう?

家父長制

 花火買ってきまーす、とコンビニに降り立っていったはずのひとたちがしゃぼん玉を持って車に帰ってきた。この雨じゃ花火はどのみちできないからね、ということなのだけれど、この雨のなかでしゃぼん玉はできるのだろうか? 車内でしゃぼん玉をする案がいっしゅん浮上して、レンタカーの規約に「車内でのしゃぼん玉禁止」があるかどうかをだれかが確認しはじめるけれど、その案自体がしゃぼん玉のようにすぐ消えた。
 車内にもたらされたしゃぼん玉はピンク色のライトセイバーのような形状だった。あるいはコンサートなどで振るのに使う光る棒のような。息を吹き込むタイプではなく、握って振ることでしゃぼん玉を生産するタイプで、ボトルにはプリキュアの絵が印刷されていた。運転をしてくれている友人は「あなたはお父さんとお母さんが愛し合って生まれた存在なのだから……」というギャグが気に入ってずっと言っている。わたしはこんなに運転が下手なひとをみるのははじめてで、感動的だった。じぶんもいつか運転免許をとれるかもしれない、というイメージが湧いたのもはじめてかもしれない。つねづね思っていたのだけど、免許を持っているひとは運転が上手すぎないだろうか。教習所に通ったとしても、いまのわたしから地続きのわたしでは、あんなになめらかにハンドルを切って狙った場所に車体をねじこんだり、あんなにためらいなく加速したりなんてことはできるはずがないと感じる。たいていのひとは、なにか人間の深部のプログラムが書き換えられないかぎりは不可能なはずのことを身につけて教習所を出てくる。わたしはプログラムを書き換えられることには抵抗がある。これまで見聞きしてきたかぎり、教習所に通っているひとはみんな高速道路の講習をいやがるので、おそらく高速道路がプログラムの書き換えになにか関係があるのではないかと思う。彼らは講習を終えて高速道路を降りるころには講習前とは別人になっているのだ。しかし、どこかの駐車場に入ろうとするたびになにかにガコンガコンと乗りあげたり、脈絡もなく加速したり減速したり、車が駐車スペースに対して真横になったり、そういう運転をするひとの車に乗ったことで、プログラムの書き換えを拒否しても免許がとれることがわかって愉快な気持ちになってきた。なにしろ、車に乗せてもらったときには、借りたばかりのはずのレンタカーのサイドミラーがすでに片方取れていたのだ。
 雨はますます強まっていた。めざしていた貯水湖の近くには着いていたのだけど、しゃぼん玉ができそうな場所がみつからない。深夜で、豪雨なのだ。外灯も少なく、ところによっては舗装もされてなく、ところによってはほとんど前がみえないような状態で、ぐるぐると同じ場所を走った。ラブホテルだけがたくさんあるようで、過剰に明るくどこかうさんくさい建物が暗い山道に定期的に燦然とあらわれるものだから、わたしたちは化かされかけているのではないかと心配になる。砂漠で遭難しているときにみる蜃気楼はこんな感じだろうか。なんだかしらないけど他の車からしょっちゅうクラクションを鳴らされるので頭にくるけれど、それらは一秒でも早くラブホに入りたくて苛々しているひとたちなのだと思うことにする。そんなに一秒を争わなくてもね、と言うと、隣で煎餅をかじっていた友人が「20代とかなのかな」と、じぶんも20代のくせにいい加減なコメントをする。湖とラブホ以外にはなにもなさそうで、しゃぼん玉ができそうな場所がみつからない。深夜で、豪雨なのだ。仮になんでもあるような都会の真ん中にいたとしても、この時間帯のこの天候下でしゃぼん玉ができる場所はなかなかないような気がする。目指すべき場所のイメージが湧かない。
 絶望的かと思われた状況のなか、ついに発見されたのは、あるコインパーキング内に設置されている公衆トイレだった。比較的大きな公衆トイレで、トイレの前にちょっとしたスペースがあって、そこには屋根があるのだ。ほかに一台の車もないそのパーキングに車を停め、トイレの前に集まった。わたしはトイレを使いたくて中をちょっと覗いてみたのだけど、個室のどの戸にも常識では考えられない数のコバエが止まっているのをみて断念した。
 屋外であり、かつ屋根もあるという奇跡的な場所を得たものの、肝心のしゃぼん玉はなかなか難しかった。ボトル自体にプリキュアの絵が印刷されていることもあり、はじめのうちは「うまくしゃぼん玉をつくれたらプリキュアになれる」「悪を倒せる」などの設定が大流行、みんなで立派なプリキュアになるべく順番にしゃぼん玉をつくる修行をした。わたしはプリキュアはまったくみたことがないが、ないなりに志を持っていっしょうけんめい練習をした。手首の角度になかなかコツがいるのだ。腕ではなく身体全体を回転させながらしゃぼん玉をうみだす技を開発した子がいて、身体の回転にまといつく動きをするしゃぼん玉が特殊効果のようできれいだった。
 その場のノリだけで反応し、展開していくこういった遊びは、一瞬でルールが書き変わり、一瞬で設定が反転する。致命的にみんなの様子がおかしくなったのは、さっきとは真逆にしゃぼん玉が悪の象徴になってからだったと思う。ひとりが「家父長制だよ~」「ホモソーシャルだよ~」「バックラッシュだよ~」といちいち解説しながらしゃぼん玉を放ちはじめたのだ。プリキュア修行によって大量生産のスキルが向上していたため、かなりの量の大小のしゃぼん玉がきらきらと舞い散る。公衆トイレの灯りを映して虹色に揺れる。それにむらがるわたしたちは、踊り狂うように家父長制やホモソーシャルバックラッシュを割っていった。幻覚のなかの景色のようだと思った。幻覚のなかの景色だったのかもしれない。

 

バニシングツイン現象

 短歌にかかわる知人同士が結婚するということがときどき起こる。短歌にかぎらず、継続してかかわっている業界があるとときどき起こることなのだろうと思う。結婚したのち、多くの場合にその片方が短歌を辞めてしまうことは長いあいだわたしの関心ごとだった。もちろん、結婚なんかに関係なく、ひとは短歌を辞めるときは辞めるのだし、ふつうは辞めたひとのことをこっちはそのうち忘れてしまう。その点、配偶者が短歌をつづけていると、その配偶者という接点が残るせいで辞めてしまったひとのことも忘れがたくなる。つまり、わたしの脳内でおそらく「短歌を辞めたひと」のサンプルは「本人が短歌を辞めていて、配偶者が短歌をつづけているひと」に偏ってしまっているはずで、そのバイアスを考慮にいれずみんながみんな結婚をきっかけにして辞めたかのような言いかたをするのはアンフェアな話だと思う。だけど、それでも、ひとが結婚したのちに短歌を辞めてしまうことはわたしの関心ごとだった。わたし自身がかつて歌をつくるひとと暮らしたことがあり、ひとと歌を分けて考えることも、同一視することもどちらもあまりに難しかった記憶を反芻させられるからという理由もあると思う。そのころはその難しさをなぜかわたしの側だけに引き受けさせようとするみえない力を肌で感じたものだったし、それはたまたまわたしにとってはそれほど強力な力ではなかったものの、その経験のおかげで、同じようなみえない力はわたしの注意を引きつづける。わたしは夜景で、わたしはクリスマスツリーだ。しっている女性がひとり歌を辞めるたび、灯りがひとつ消える。
 さいきん少し考えが変わったのは、あるひとが結婚を機に短歌をつくることを辞めたとして、そのひとはべつにかならずしも犠牲者というわけではないのかもしれない、と思うようになったことだ。短歌をつくるひととの親密な生活を選択したおかげで、そのひとは短歌をつくらないかたちでの短歌との関わりかたを確保できたのかもしれない、それはあるタイプのひとにとってはとても望ましくて安らかな状態なのかもしれない、という想像が働くようになった。正直いってごくさいきんまで思いもしなかったことである。たとえば演劇にかかわるひとのすべてが役者をやりたがっているわけではない、ということに近いかもしれない。観客の目には役者しかみえなくても、姿のみえない音響係は役者に押しのけられて音響ブースにいるわけではもちろんなく、いるべき場所にいるだけなのだということ。短歌は純粋読者(=実作をせず、読むだけの人)がいないジャンルだとよくいわれる。実際には純粋読者はいないわけではなく、しかもこのところはだんだん増えてきているとも個人的には感じているのだけど、それでも、ほんとうに近くで関わろうとすると実作という意味でのプレイヤーの椅子しか用意されていないとは思う。例外的に、〈短歌を売る人〉という商業的なポジションは若干数あるけれど、これはやはり短歌というジャンルの特殊な点なのかもしれない。短歌に対する欲望とじぶんの歌をつくりたい欲望が今のところは釣り合っているわたしには感覚的には想像しづらいことだけど、実作をしたいわけではないのに短歌の近くにいたいひともいるのだということがやっと頭ではわかるようになってきた。なかには実作をしたいわけではないということがじぶんでもわかっていないひともいるかもしれない。短歌の近くに座りつづけるために、苦しい思いをして、したくもない実作をつづけているひとも。そういうだれかが短歌に対する透明人間のようなポジションを望んで手に入れたのだとしたら、それはわたしが脇から恨むことではないのだろう。
 人権の話と才能の話はしばしば矛盾するもので、いい歌をつくるひとが失われた場合、それがどんな理由であれ恨んでしまうのも事実ではあるのだけど。
 むかし、このひとが短歌の世界から消えるのはわたしはどうしても困る、という相手とこの現象について話し合っていたときに「わたしたちは結婚とかしないように気をつけたほうがいいですね」と口走ったことがある。言わずにいられなかったのだけど、そのひとはおっとりと「わたしならいつでも辞めるよ」と答えた。

 

記憶をぜんぶ消すやりかた

  長期旅行のあいだ預かっていてほしいと友だちから託された家事ロボット(本物の人にしかみえない)が本来はセクサロイドとして開発された商品であることを知ったのはロボットと暮らしはじめてからしばらく経ってからのことだった。もともとはオプションだった家事や話し相手の機能があまりに優れていたため、むしろそっちの用途で人気が出てしまい、今では家事ロボットとしてよく知られるようになったらしい。よくあることだ。バイアグラだってもともとは心臓病の薬だったのだ。それで、セクサロイドとしてもかなり優秀らしいということを知って、わたしはどうしても使ってみたくなってしまった。問題は、最近のロボットは起動中は常に録音録画が義務付けられていることだった。ドライブレコーダーのようなものだ。トラブルや事故の防止のためにとにかく四六時中記録を残すのだ。わたしはセックスの機能を使ったこと自体が友だちに露呈するのはべつに構わなかった。なにしろ、預かってくれるなら使ってていいよ、と言われていたのだ。ただ、いずれロボットを返したあと、なにかの弾みにあまりに生々しい音声や映像が友だちの目に触れる可能性があるのはちょっといただけないなと思った。
 ちょっと二時間分くらい映像データを削除することはできないのかとロボットに聞いた。そのロボットの機能についてはロボット本人に聞くのがなんでもかんでも手っ取り早かった。部分的な削除はできませんね、とロボットは微笑んだけど、そのあとに、初期化すれば全データが消えることを教えてくれた。工場出荷状態に戻せば、内部に記録された音声も映像もすべて消えるらしい。なるほど。友だちに返す前に初期化すればいいや、と気が楽になったわたしはロボットと関係を持った。そのスキルは噂にたがわず素晴らしかったのだけど、誤算だったのは、あまりに親密な雰囲気が生まれてしまったことだった。緊張感や激しさとは無縁の、つねにくすくす笑っているような時間だったのだ。心を開いた、とか、好きになった、というとすこし違うのだけど、わたしはとてもリラックスしはじめていたし、ロボットのほうも前よりリラックスした様子をみせてくれて、そういう機能なのだとしても嬉しかった。
 それからの日々は楽しかったけれど、楽しいほどにわたしはだんだん苦しくもなってきていた。ロボットに残っているデータのことだった。実際に初期化するかどうかや、映像が友だちの目に触れるリスクなどはもはやどうでもよくなっていた。わたしの心を重たくさせていたのは、記憶をぜんぶ消すやりかたを当のロボット本人に尋ねたという、自分の行為の残酷さについてだった。しかも、わたしとの時間を、わたしとの記憶を全削除するなんて、どうしてあんなことが聞けたんだろう。挽回する方法がぜんぜん見つけられないまま、友だちが旅行から帰ってくる日は近づいていた。
 という夢をみたのはもう二週間くらい前なんだけど、なんかまだちょっと後ろめたいというか心苦しい気持ちが残ってるのはどうしたらいいんでしょうか。ロボットと付き合う話だと、むかし読んだタニス・リーの『銀色の恋人』という小説がめちゃめちゃおもしろかったです。ハヤカワ文庫SF。

 

お正月革命

クリスマスとの付き合い方はもうずいぶん前に決めて、それからずっと変わっていない。クリスマスにはクリスマスの上を転がりまわること。お正月との付き合い方がまだ決められず、毎年試行錯誤を繰り返しているものの、今年もまたこうしておろおろしている。
その理由ははっきりしている。日本におけるお正月は「家族」や「実家」などと密接だからだ。欧米ではクリスマスのほうが家族のためのイベントだと聞く。わたしももし欧米に生活していたらクリスマスとの付き合い方におろおろしていたかもしれないのだけど、日本では幸いにしてクリスマスは恋人たちのイベントだということになっている。いや、クリスマスが恋人たちのイベントだというのは九十年代に置き去りにされたお約束なのかもしれないし、たとえば近年の日本でのハロウィンの台頭は、ハロウィンが決して恋人たちのためのイベントではなく「友だち」や「仲間」とのイベントであることに関係があるのかもしれない、それほどまでに「恋人」という関係性自体、あるいはその関係性とイベントのセット売りを今ではだれも求めていないのかもしれないけれど、わたしはそれでもクリスマスを恋人たちのためのイベントだと思い続けたいところがある。なぜなら、クリスマスにおける「恋人たち」とは「実家」をはぐれた者たちだからだ。クリスマスに家でチキンを食べずにおしゃれして街に出るのは、いや、そもそも「恋人」を持つということ自体が「実家」に対する造反だ。クリスマスイブの夜の恋人だちは、実家を捨てた者たちであり、しかし次世代の実家は(すくなくともまだ)形成していない、無色の孤児たちなのだと思う。
クリスマスからわずか一週間で、あんなに孤児だらけにみえた世間の様相は一変する。不思議なことにこの世は実家だらけだ。一週間前の孤児までが巣に戻っていく。わたしはもうわりと長くわたしとして生きているはずなのに自分が大金持ちじゃないことや自分が美人じゃないことや自分が天才じゃないこと、それらの属性を持っていた瞬間がいちどもないことがうまく飲みこめていなくて、たぶんそのせいでお金持ちのことも美人のことも天才のことも憎むことができないのだけど、同様に自分に「実家」的なものがないこともうまく飲みこめていない。実家的なものがない人はたくさんいるけれど、おそらく彼らの苦しみは他人の実家や他人の団欒を目にしたときにそれを憎んでしまうところにあると思う。貧乏人がお金持ちを、凡人が天才を憎むように。自分がそれを持っていないことがピンと来ていないわたしにはその苦しみがなく、それ自体はありがたいことのような気はするのだけど、問題はみんなが実家に向かっているとなんとなく真似して同じ方向に足を踏み出してしまうことなのだ。自分の家のリビングの扉を開けると、わたしが想像するところの「お正月の団欒」が広がっているような気がする。重箱とか、福笑いとか、小さい子どもとか、鏡餅とか、そういうもので構成されている「お正月」だ。
扉を開ける。わたしのリビングにはがらんと本が積みあがっているだけなことがまだ理解できず、自分なりのお正月のパーツを寄せ集めてみる。今年もお雑煮をつくった。かまぼこや黒豆などいくつかの食べものをスーパーで買ってきてみた。ふだんはつけないテレビをつけた。そして、それらのパーツの寄せ集めがなにも再現しないことに気づくときはじめて茫然とする。その感情ははじめてすこし悲しさに近いかもしれない。
あらゆる「実家」的なものに完全に背を向けるか、近づくための渾身の努力をするか、お正月の付き合い方を決めるというのは現状その二択なのだと思う。何年かけてもそれを決められないわたしは今年はお箸を持って出歩きたい。友だちがいる友だちの実家に我が物顔で押し入っておかずをひとつだけ食べることをくりかえしながら日本中をまわりたい。文字にするとずいぶんいじましい望みのようにみえてしまうかもしれないけれど、わたしにとってそれは「お正月」と「実家」の密着のあいだに無粋な箸を差し入れる、おもしろおかしい革命なのだ。