ミント・ミント

ついにこの日が来てしまった。わたしの家の最寄りにあたるコンビニ、地球上に残された最後のサークルKサンクスであった店舗がファミリーマートに転生していた。ある夜の帰宅途中に気がついた。


その活動はひそやかにしばらく前からはじまっていた。気がついている人も多かったと思う。サークルKサンクスのつもりで入った店内になぜか「ファミリーマート新商品」などのシールがついた商品が置かれている。ぽつりぽつりと増えていく。あれ、わたしはどこに来たんだっけ、と軽く混乱しながら、でも「ライザップ監修!糖質控えめのファミマのチーズケーキ」を買い物かごに入れる。それらははじめは「ちょっと間借りしていますよ」という表情で、でもあきらかに奇妙に、ふてぶてしい存在感をたたえて増殖する。そして、変化はずっとひそやかにつづくわけではなく、ある臨界点を超えた瞬間に止められない加速度がつき、あっという間に店舗の外装が塗り替えられる。外側はいつでもいちばん最後に変わるのだ。気がついたときには何もかもが終わっている。
店名の「ファミリー」やキャッチコピーの「あなたと“コンビ”に」という単語に彼らの戦略はよくあらわれている。わたしたちは仲間だ。同じ種族だ。だから、あなたの顔をしていようがわたしの顔をしていようが、たいした違いはないじゃない?
新しいファミリーマートによってわたしの住んでいる地域全体の空気の組成が変わってしまったことを感じる。そのファミリーマートの気配は、最寄りと言えど数百メートルは離れていて直接は店舗がみえない位置にあるわたしのマンションまでやすやすと届く。空気の入れ替えのためにほそく開けたリビングの窓からあの緑と水色が侵入してくる。ペパーミントとスペアミントの清涼感。わたしはコンビニだとセブンイレブンがいちばん好きです。

 

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みみず救出劇

最近はおもにみみずの救出活動をしている。アスファルトの道路の上に這い出てきて土のなかに戻れなくなり、路上で乾きはじめているみみずを手近な棒で手近な土の上に戻す活動。生命の危機にさらされているみみずにとってわたしは控えめに言っても救世主なのにみみずはだいたい迷惑そうに怒って身をよじっている。
 
この活動は、家に迷いこんでくる生き物を、いくつかの例外を除いてできるだけ殺さずにご退出いただくことにしている習慣と関係がある。わたしはアンチ殺生なわけではなく、虫の生涯もみみずの生涯も正直言ってまったくどうでもいいのだけど、あまねく「死骸」というものが苦手なのだ。虫全般はそれほど苦手じゃない。下手に殺してしまって死骸にしてしまうとそれを処理するのに多大なストレスを感じるので、逃げたり動いたりする虫を運搬する作業が多少めんどうくさくても、生きている姿で窓から出ていってもらうほうが気が楽。
みみずを助けているのもそれと同じ理由で、アスファルトの上で乾きかけているみみずはほぼ100%の確率で数時間後には死骸になる。蟻などがすっかり片付けてくれるまではアスファルトの上で死骸として乾きつづける。からだが乾くと生きていけない性質のくせにああやって頻繁に餌もない道路に進出してくるのはなにを考えているのか、脳みそは入っているのか。わたしだって日光も夏も暑さも乾燥も苦手だけど、わたしはちゃんと夏には炎天下には出ないでエアコンの効いた場所に引きこもるように工夫しているのに、みみずには呆れるばかり。わたしがあまり通らない道でそういうばかなみみずが何匹死んでいてもわたしは構わないけれど、よく通る道に死骸が存在するのはほんとうに嫌なので、それを未然に防ぐために見かけると仕方なく救いの棒を差し出している。だから、「あのとき助けてもらったみみずです」とお礼の品を持って訪ねてくるのはやめてほしい。戸口のみみずをまた土の上に戻さなきゃいけなくて大変だから。
 
家に入ってくる生き物を殺さない習慣のうちの「いくつかの例外」の筆頭はまずごきぶりで、あのひとたちは出ていかない。ほんとうは野外で生きているほうが幸せなのにうっかり迷い込んでしまった種類の虫たちと違って、好んで家に居座っているので、こちらとしても居住権を賭けて戦うほかない。
それから蜘蛛。蜘蛛のことは好きなのでうちにいてくれるというならぜひいてほしい。
最後は蚊と最小サイズの蛾、及びそれ以下のサイズの生き物。これらは小さすぎて追い出すのが困難な上に、蚊や最小サイズの蛾はわたしのなかでは「虫」というより「綿埃」に近いジャンルにカテゴライズされているので、死骸化することにストレスがない。生きてることはたぶん確かなので綿埃扱いも申し訳ないような気もするけれど、どこかでは線引きをしないといけないというこちらの都合を少しでもわかってもらえたらうれしい。このところ小さい蛾はよくやっつけている。わたしは蛾をやっつけるのが上手いと思う。
 
 
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彼の人生

折りたたみ傘は嫌い。

折りたたみ傘を折りたたむことが好き。とても好き。

 

よく使う国分寺駅は改札の並びに駅ビル丸井の入り口があるので、次の中央特快まであと7分あるなぁ、その7分をホームで待つのは暑いなぁ(もしくは寒いなぁ)、というようなとき、その数分だけぱっと丸井に入る。ほかのいろいろな丸井がそうであるように入ってすぐの一階は雑貨や小物の売り場で、ストッキングやハンカチやアクセサリーや、それから傘がずらっと売られている。

どんなデパートでも傘の売り場にはなぜか必ずやや年配の男性店員がいるような気がするんだけど、丸井国分寺店にも落ち着いた雰囲気の男性店員がいて、客がためしに広げてみてそのまま置き去りにした傘をていねいにたたみなおしている。ずっとたたみなおしている。

彼の人生のことを考える。考えてもまったく想像がつかなくてすぐにあきらめる。あきらめながら、彼がぱさぱさっと傘を振って、1、2分できれいにたたみなおしてしまうスキルに目を奪われる。わたしは傘売り場で傘をたたみなおしつづける仕事がうらやましいのだと思う。でもたぶん彼の仕事はほんとうは傘売り場で傘をたたみなおしつづけることではなく、ほかにもっと難しい業務やつらい仕事をたくさんしているんだろうとも思う。傘売り場で朝から晩までえんえんと傘をたたみなおしてほかには何もしなくていい仕事なんて、わたしの想像のなかにしかないんだと思う。

 

折りたたみ傘が嫌いなのは、世の中の折りたたみ傘を嫌いな人たちと理由はだいたい同じだと想像する。使ったあとで鞄に入れると鞄の中が濡れるし、コンビニに入る前に傘立てに預けようとすると傘立てにフィットせずほかの長傘たちの足元にうずくまるようなかたちになって屈辱的だし、ビニールの傘袋に対しては直径が大きすぎるし、家に帰ってから乾かすのが大変だし、差すとなんだか小さいし、風に弱いし、「持ち歩きやすい」以外のデメリットが多すぎる。

だけど世の中の折りたたみ傘が嫌いな人たちの理由のなかに「使ったあとに折りたたむのが面倒」というものがあるとしたら、それはわたしには当てはまらない。わたしは折りたたみ傘をたたむのが大好きなので、使用後の折りたたみ傘はみんなわたしのところに持ってきてほしい。

 

折りたたみ傘をきれいにたたむにはまずその傘のあるべき姿を傘に聞く必要があって、たたむ準備(まずはぽきぽきと骨を折って、突き出た関節の部分をすべて持ち手の隙間に突っ込んでばらけないようにする)が整ったら、くるくると回しながら布地の折り目に触れ、布地がどこで折れているべきなのか、どこでは折れていないべきなのかを確認する。山折りと谷折りがある。

ときには着物のおはしょりを整えるように指を入れながら、隠れている部分も含めて正確に布地の折り目を再現する。それが終わって布地がすべてあるべき姿に折られたら、巻きつける作業。この巻きつける作業に、折りたたみ傘たたみの醍醐味がある。

たとえば長傘の場合は構造が折りたたみ傘より単純なぶんだけ話も簡単で、巻きつける過程で布地なりビニール地なりに負荷をかけずに、つまりあるべき折り目をまったく崩さずに完成させることができるのだけど、折りたたみ傘はそういうわけにいかない。折りたたみ傘は完成形のコンパクトさにそもそも無理があるので、せっかく正しく折った折り目は巻きつける作業でかならず崩れ、ずれ、皺が寄る。

そのずれを最小限にとどめるように、崩れが1ヶ所に偏らず全体で小さなしわを引き受けるかたちになるようにできるだけ分散させながら、それでもじわじわと窮屈そうになっていく布地にうしろめたくなりながら巻きつけを強くしていく。時間がかかる。これを1、2分でできる丸井の傘売り場店員の職人技のことも思う。

せっかくていねいに触れて分かりあうことができた相手の急所を台無しにする。これはこの世で折りたたみ傘に対してだけゆるされている暴力である。

 

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食卓

夕食1

自分に食事を振る舞った。

テーブルの上には丼に山盛りのサラダと、丼になみなみと注がれた野菜スープと、それから並サイズのシーフードスパゲティが並んだ。

このボリュームじゃスパゲティにたどりつけないんじゃないかと不安になった。大量の野菜をとらなければいけないというこの人の強迫観念をどうにかしてほしいと思ったけれど、それがどうにかなってしまうとわたしが不健康になるような気もした。

 

 

夕食2

ピーマンを縦に切ったら中で種が発芽していた。

 

 

夕食3

友だちに教わったことのなかで「茸をグリルで焼くととてもとてもおいしい」という部分だけが耳に残っていたのでやってみようと思って椎茸を買ってきたんだけど、焼いたあとどうするんだかを忘れたか、もしくは聞いてない。塩とかかけたらいいのかな。

それよりも問題は少なくとも5年は使っていないはずのグリルで、グリルって久しぶりに使うときにしなきゃいけない儀式ってなにかあるんだろうか。水をかけるとか、埃を払うとか、声をかけるとか、なんか塗るとか。五里霧中だ。

 

 

 

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わたしのリトルバード

Twitterがいやになってしまったからblogを書こうかなという気持ちになったといえばそうなんだけど、blogを書こうかなというのは一昨年くらいからずるずる考えてはなんとなく面倒になって放置してきた考えなので、Twitterがいやになってしまったことに背中を押してもらったともいえる。

 

「セッション」という映画を見た。この映画の評価について数年前にネット上で論争というか炎上というか喧嘩というかが起こっていて、そっちのやり取りのほうを熟読してからやっとDVDを借りてきたので、壮大なネタバレののちに見ているということになる。

わたしはもともと映画のネタバレを気にしないタイプで、映画に求めているのがストーリー面でのサプライズではないという理由もあるけれど、それよりも、映画の読解力が低くてすぐ話がわからなくなるのと、登場人物の顔と名前をなかなか覚えられない(とくに日本人以外だと)(日本人でも、たとえば「シン・ゴジラ」の男性の登場人物の見分けはほとんどついていない)ので、ものによってはむしろあらかじめあらすじを頭に叩き込んでから見ないと開始10分で迷子になる、という切実な理由もある。「マルホランド・ドライブ」は今まで見たなかでもとくに好きな映画だったけど、好きな理由には、わたしよりずっと映画リテラシーが高い人たちにとってもきっとあらすじも追えなければ登場人物の「顔」と「名前」も一致しないに違いない、という嬉しさがあったと思う。

小説やドラマについては今のところ読解力には不自由していない上に、小説やドラマにはある程度「ストーリーのおもしろさ」を求めているので、これらのネタバレは薄目で見るようにしていて、わたしは視力がいいのでこれはなかなか大変。だけどそういえば漫画の読解力にはかなり不自由しているので、わたしには「画」を理解する機能があまりついていないのかもしれない。

そういうわけで、終盤でいちおういくつか意外な展開があるというストーリー上はどちらかというと「ネタバレ禁止」な類のこの映画も、そこはまったく気にせずに見はじめたのだけど、見はじめてから気づいたのは、これは「ネタバレ」とはちょっと話が違う体験だな、ということ。熱い批判と熱い擁護の往復という、単なるあらすじよりずっと暑苦しい大量の前情報は、わたしの脳内にすでにかなり細かいディティールの「わたしの『セッション』」をつくりあげていた。

これはたとえば思い入れのある原作が映画化された場合の「解釈違い」に対する戸惑いの拡大版ともいえるけれど、わたしの脳内にしかない「セッション」は本物の「セッション」の上書きに対抗するのがかなり困難なので、戻れる場所がずっとあやふやだという点がずいぶん違う。

当たり前といえば当たり前だし、奇妙といえば奇妙だけど、思い描いていたものといちいちあまりに違うので、ネタバレどころか映画を見ている一瞬一瞬がむしろ新鮮だった。

こういう体験はわたしにとってグッとくるもののひとつ。前情報によって自分の脳内に勝手に建設しちゃったものと実物を見比べて、あまりに違うってことにびっくりするのも、脳内の建設物のほうを保存しようとしてしまう心の動きも、でもきちんとは保存できないその建設物の儚さも、ぜんぶ好き。

 

もう10年以上も前に、Tさんに会うのに半年かかった。

さんは会う前からも共通の知人とのあいだでも話題に名前がのぼりやすいタイプの、つまり華やかなタイプの人で、事前情報はいろいろと得ていた上に、わたし自身も事務的な用事でメールのやり取りはなんどかしていたので、本人に会うまでの半年間にわたしのTさんに対するイメージはほぼ固まっていた。

経験上こういう相手といざ顔を合わせたときにその人が事前イメージと大きく違うということのほうがどちらかというと少なくて、もちろん会ったことのない人を100%の精度で想像することはできないので(この場合の100%ってなんだろうという気もするけど)、微妙なずれはあるけれど、それはすぐに修正されて本物のその人のほうに吸収されていく程度のずれだ。

でも、Tさんは事前イメージと大きく違うほうの人だった。外見面で説明するのがわかりやすいと思うのだけど、「わたしのTさん」は長身で黒髪のストレートロングのヘアスタイルの人だったのに、目の前に現れた本物のTさんは小柄でふわふわした茶髪の人だった。びっくりして、この人はいったい誰だろうと思ったけれど、Tさんは想像とまったく違う声質で「Tです」と言った。

実物をしらずに「わたしのTさん」を抱いていた期間が半年、実物に出会ってから10年以上。とっくに印象は上書きされていてもいい時間が流れていると思うのだけど、わたしはまだ納得できずに「わたしのTさん」を抱いたままで、それはもう生々しく抱いたままで、今でも「この人はどこに行ってしまったんだろう」と考えている。探している。

 

最近だと、ネットショップをずっと眺めていた「リトルバード」という古着屋さんがあって、実店舗の情報も断片的にウェブサイトに載っていたので、それをもとに最初はぼんやりと実店舗を想像していたのだけど、ネットショップで扱っているたくさんの古着、とても可愛くてクセのあるワンピースたちを見ているうちに店舗イメージはどんどん肉付けされてしまい、最終的には行ったことのあるお店のようにくっきりと思い浮かべられるようになった。店を外から見たときの周囲の商店街の様子や、店内のマネキンの位置や角度まで詳細に。

数週間前に実店舗のある中野へ行くついでがあったときについにお店に足を運んだら、なにもかもが想像と違った。照明すら違った。薄暗く、白熱灯に照らされた店内を想像していたのに、陽光がふんだんに入るあかるい店構えで、照明には蛍光灯が使われているお店だった。マネキンはいなかった。ついでに周囲は商店街ではなく住宅街だった(それくらいはウェブサイトでマップを見た時点でわかりそうなものだけど)。

その後、記憶の上書きに対抗するために、この店のことを考えるときに「わたしのリトルバード」のほうを積極的に思い浮かべるようにしているけれど、「わたしのリトルバード」はすでに最近すみっこがかすれてきて、ちらちらと「本物のリトルバード」の映像が挟まるようになってきたので、「わたしのTさん」と違って「わたしのリトルバード」はもうすぐ消滅してしまうのかもしれない。

 

それで、肝心の「セッション」の感想は、「まあまあおもしろい部分もあった」という鈍いものだったけど、「人はなぜスポ根ものに惹かれるのか」ということを考えて、それを考えることはおもしろかった。

 

 

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