非・パフェ派のひとたちに送ったメール

☽☽さん、❅❅さんへ

 

こんにちは。土曜日に遊ぶ件ですが、さっきのメールでは☽☽さんの案に乗っかっただけになっちゃったので、別の案をちょっとだけ置いておきます。

 

急にまじめにパフェの話をはじめるのですが、☽☽さんはパフェの存在意義があまりわからない、非・パフェ派だと前にちらっとお聞きしました。
(嫌いというわけではなさそうだったので、アンチ・パフェ派とは区別します)
それ以来、非・パフェ派のひとを説得したい場合、どういう筋でパフェのことをプレゼンすればいいのかというのをずっと考えていたのですが、おおまかに、

 

①パフェは使われるマテリアルの種類が多く、さまざまな食感や味を少しずついっぺんに食べられるので、お菓子の要素の小宇宙的な魅力がある
②パフェはいい果物をおいしく味わうのに最良の形態である

 

の二つが考えられるなと思いました。そして、直感的に、☽☽さんは②で押したほうがいいような気がしています。

 

果物を本気でもてなしているパフェを食べると、「これが果物のほんとうのあるべき姿であり、わたしが今まで果物だと思って食べていたのは〈素材〉だったのでは?」という気持ちになります。果物のケーキもおいしいけど、ケーキは油や粉のうまみが果物とわたりあってしまうため、果物の優位性があまりないような気がします。グラスがあるために自ら形を保つ必要がなく、占めようと思えばかなりの割合を果物が占められるパフェは、理想的な果物の器です。

 

わたしが今までに果物の扱いがうまいと感じた東京のパフェ屋に、門前仲町のf 、吉祥寺のW、四谷三丁目のFなどがあります。
このうち、ひとつめのfは営業が不安定で、行っても開いてたり開いてなかったりするのでちょっと除外して、バトミントンができる場所というのも併せて考えると、二つ目のWのある吉祥寺には井の頭公園があり、三つ目のFからは新宿御苑まで歩けます。新宿御苑はたしかちょっと有料だけど。
Wはパフェ屋というかフローズンヨーグルトの店なのですが、味がさっぱりしてるので夏向きかもしれない。Fはとにかく果物の純度が高い。

 

以上のような理由から、パフェを軸にして考えると、吉祥寺や四谷なども選択肢に入れられるかもしれないと思いました。ご検討よろしくお願いします。

 

平岡

課題

 湿気は苦手だ。
 乾燥や暑さや低気圧や雷や西日や蟻や掃除やミャンマー料理や大晦日や発泡スチロールやその他あらゆるものが苦手だが、とにかく湿気は苦手だ。毎日じめじめしているとだんだん身体からカビが生えるイメージが湧いてくる。外を歩くとき服と身体のあいだが不愉快にべたっとしていると、もうすでに身体にカビが生えていることを確信する。皮膚を熱湯消毒したい。熱風で乾かしたい。カビなどが生えたことのないまっさらな身体に総とっかえしたい。気持ちが追いつめられてくると、浴室の壁にカビが生えているのをみるたびに妙に安心してしまう。カビがわたしの妄想の産物ではないことがわかるからだ。
 人類はどうして湿気を克服できないんだろう?

家父長制

 花火買ってきまーす、とコンビニに降り立っていったはずのひとたちがしゃぼん玉を持って車に帰ってきた。この雨じゃ花火はどのみちできないからね、ということなのだけれど、この雨のなかでしゃぼん玉はできるのだろうか? 車内でしゃぼん玉をする案がいっしゅん浮上して、レンタカーの規約に「車内でのしゃぼん玉禁止」があるかどうかをだれかが確認しはじめるけれど、その案自体がしゃぼん玉のようにすぐ消えた。
 車内にもたらされたしゃぼん玉はピンク色のライトセイバーのような形状だった。あるいはコンサートなどで振るのに使う光る棒のような。息を吹き込むタイプではなく、握って振ることでしゃぼん玉を生産するタイプで、ボトルにはプリキュアの絵が印刷されていた。運転をしてくれている友人は「あなたはお父さんとお母さんが愛し合って生まれた存在なのだから……」というギャグが気に入ってずっと言っている。わたしはこんなに運転が下手なひとをみるのははじめてで、感動的だった。じぶんもいつか運転免許をとれるかもしれない、というイメージが湧いたのもはじめてかもしれない。つねづね思っていたのだけど、免許を持っているひとは運転が上手すぎないだろうか。教習所に通ったとしても、いまのわたしから地続きのわたしでは、あんなになめらかにハンドルを切って狙った場所に車体をねじこんだり、あんなにためらいなく加速したりなんてことはできるはずがないと感じる。たいていのひとは、なにか人間の深部のプログラムが書き換えられないかぎりは不可能なはずのことを身につけて教習所を出てくる。わたしはプログラムを書き換えられることには抵抗がある。これまで見聞きしてきたかぎり、教習所に通っているひとはみんな高速道路の講習をいやがるので、おそらく高速道路がプログラムの書き換えになにか関係があるのではないかと思う。彼らは講習を終えて高速道路を降りるころには講習前とは別人になっているのだ。しかし、どこかの駐車場に入ろうとするたびになにかにガコンガコンと乗りあげたり、脈絡もなく加速したり減速したり、車が駐車スペースに対して真横になったり、そういう運転をするひとの車に乗ったことで、プログラムの書き換えを拒否しても免許がとれることがわかって愉快な気持ちになってきた。なにしろ、車に乗せてもらったときには、借りたばかりのはずのレンタカーのサイドミラーがすでに片方取れていたのだ。
 雨はますます強まっていた。めざしていた貯水湖の近くには着いていたのだけど、しゃぼん玉ができそうな場所がみつからない。深夜で、豪雨なのだ。外灯も少なく、ところによっては舗装もされてなく、ところによってはほとんど前がみえないような状態で、ぐるぐると同じ場所を走った。ラブホテルだけがたくさんあるようで、過剰に明るくどこかうさんくさい建物が暗い山道に定期的に燦然とあらわれるものだから、わたしたちは化かされかけているのではないかと心配になる。砂漠で遭難しているときにみる蜃気楼はこんな感じだろうか。なんだかしらないけど他の車からしょっちゅうクラクションを鳴らされるので頭にくるけれど、それらは一秒でも早くラブホに入りたくて苛々しているひとたちなのだと思うことにする。そんなに一秒を争わなくてもね、と言うと、隣で煎餅をかじっていた友人が「20代とかなのかな」と、じぶんも20代のくせにいい加減なコメントをする。湖とラブホ以外にはなにもなさそうで、しゃぼん玉ができそうな場所がみつからない。深夜で、豪雨なのだ。仮になんでもあるような都会の真ん中にいたとしても、この時間帯のこの天候下でしゃぼん玉ができる場所はなかなかないような気がする。目指すべき場所のイメージが湧かない。
 絶望的かと思われた状況のなか、ついに発見されたのは、あるコインパーキング内に設置されている公衆トイレだった。比較的大きな公衆トイレで、トイレの前にちょっとしたスペースがあって、そこには屋根があるのだ。ほかに一台の車もないそのパーキングに車を停め、トイレの前に集まった。わたしはトイレを使いたくて中をちょっと覗いてみたのだけど、個室のどの戸にも常識では考えられない数のコバエが止まっているのをみて断念した。
 屋外であり、かつ屋根もあるという奇跡的な場所を得たものの、肝心のしゃぼん玉はなかなか難しかった。ボトル自体にプリキュアの絵が印刷されていることもあり、はじめのうちは「うまくしゃぼん玉をつくれたらプリキュアになれる」「悪を倒せる」などの設定が大流行、みんなで立派なプリキュアになるべく順番にしゃぼん玉をつくる修行をした。わたしはプリキュアはまったくみたことがないが、ないなりに志を持っていっしょうけんめい練習をした。手首の角度になかなかコツがいるのだ。腕ではなく身体全体を回転させながらしゃぼん玉をうみだす技を開発した子がいて、身体の回転にまといつく動きをするしゃぼん玉が特殊効果のようできれいだった。
 その場のノリだけで反応し、展開していくこういった遊びは、一瞬でルールが書き変わり、一瞬で設定が反転する。致命的にみんなの様子がおかしくなったのは、さっきとは真逆にしゃぼん玉が悪の象徴になってからだったと思う。ひとりが「家父長制だよ~」「ホモソーシャルだよ~」「バックラッシュだよ~」といちいち解説しながらしゃぼん玉を放ちはじめたのだ。プリキュア修行によって大量生産のスキルが向上していたため、かなりの量の大小のしゃぼん玉がきらきらと舞い散る。公衆トイレの灯りを映して虹色に揺れる。それにむらがるわたしたちは、踊り狂うように家父長制やホモソーシャルバックラッシュを割っていった。幻覚のなかの景色のようだと思った。幻覚のなかの景色だったのかもしれない。

 

バニシングツイン現象

 短歌にかかわる知人同士が結婚するということがときどき起こる。短歌にかぎらず、継続してかかわっている業界があるとときどき起こることなのだろうと思う。結婚したのち、多くの場合にその片方が短歌を辞めてしまうことは長いあいだわたしの関心ごとだった。もちろん、結婚なんかに関係なく、ひとは短歌を辞めるときは辞めるのだし、ふつうは辞めたひとのことをこっちはそのうち忘れてしまう。その点、配偶者が短歌をつづけていると、その配偶者という接点が残るせいで辞めてしまったひとのことも忘れがたくなる。つまり、わたしの脳内でおそらく「短歌を辞めたひと」のサンプルは「本人が短歌を辞めていて、配偶者が短歌をつづけているひと」に偏ってしまっているはずで、そのバイアスを考慮にいれずみんながみんな結婚をきっかけにして辞めたかのような言いかたをするのはアンフェアな話だと思う。だけど、それでも、ひとが結婚したのちに短歌を辞めてしまうことはわたしの関心ごとだった。わたし自身がかつて歌をつくるひとと暮らしたことがあり、ひとと歌を分けて考えることも、同一視することもどちらもあまりに難しかった記憶を反芻させられるからという理由もあると思う。そのころはその難しさをなぜかわたしの側だけに引き受けさせようとするみえない力を肌で感じたものだったし、それはたまたまわたしにとってはそれほど強力な力ではなかったものの、その経験のおかげで、同じようなみえない力はわたしの注意を引きつづける。わたしは夜景で、わたしはクリスマスツリーだ。しっている女性がひとり歌を辞めるたび、灯りがひとつ消える。
 さいきん少し考えが変わったのは、あるひとが結婚を機に短歌をつくることを辞めたとして、そのひとはべつにかならずしも犠牲者というわけではないのかもしれない、と思うようになったことだ。短歌をつくるひととの親密な生活を選択したおかげで、そのひとは短歌をつくらないかたちでの短歌との関わりかたを確保できたのかもしれない、それはあるタイプのひとにとってはとても望ましくて安らかな状態なのかもしれない、という想像が働くようになった。正直いってごくさいきんまで思いもしなかったことである。たとえば演劇にかかわるひとのすべてが役者をやりたがっているわけではない、ということに近いかもしれない。観客の目には役者しかみえなくても、姿のみえない音響係は役者に押しのけられて音響ブースにいるわけではもちろんなく、いるべき場所にいるだけなのだということ。短歌は純粋読者(=実作をせず、読むだけの人)がいないジャンルだとよくいわれる。実際には純粋読者はいないわけではなく、しかもこのところはだんだん増えてきているとも個人的には感じているのだけど、それでも、ほんとうに近くで関わろうとすると実作という意味でのプレイヤーの椅子しか用意されていないとは思う。例外的に、〈短歌を売る人〉という商業的なポジションは若干数あるけれど、これはやはり短歌というジャンルの特殊な点なのかもしれない。短歌に対する欲望とじぶんの歌をつくりたい欲望が今のところは釣り合っているわたしには感覚的には想像しづらいことだけど、実作をしたいわけではないのに短歌の近くにいたいひともいるのだということがやっと頭ではわかるようになってきた。なかには実作をしたいわけではないということがじぶんでもわかっていないひともいるかもしれない。短歌の近くに座りつづけるために、苦しい思いをして、したくもない実作をつづけているひとも。そういうだれかが短歌に対する透明人間のようなポジションを望んで手に入れたのだとしたら、それはわたしが脇から恨むことではないのだろう。
 人権の話と才能の話はしばしば矛盾するもので、いい歌をつくるひとが失われた場合、それがどんな理由であれ恨んでしまうのも事実ではあるのだけど。
 むかし、このひとが短歌の世界から消えるのはわたしはどうしても困る、という相手とこの現象について話し合っていたときに「わたしたちは結婚とかしないように気をつけたほうがいいですね」と口走ったことがある。言わずにいられなかったのだけど、そのひとはおっとりと「わたしならいつでも辞めるよ」と答えた。

 

記憶をぜんぶ消すやりかた

  長期旅行のあいだ預かっていてほしいと友だちから託された家事ロボット(本物の人にしかみえない)が本来はセクサロイドとして開発された商品であることを知ったのはロボットと暮らしはじめてからしばらく経ってからのことだった。もともとはオプションだった家事や話し相手の機能があまりに優れていたため、むしろそっちの用途で人気が出てしまい、今では家事ロボットとしてよく知られるようになったらしい。よくあることだ。バイアグラだってもともとは心臓病の薬だったのだ。それで、セクサロイドとしてもかなり優秀らしいということを知って、わたしはどうしても使ってみたくなってしまった。問題は、最近のロボットは起動中は常に録音録画が義務付けられていることだった。ドライブレコーダーのようなものだ。トラブルや事故の防止のためにとにかく四六時中記録を残すのだ。わたしはセックスの機能を使ったこと自体が友だちに露呈するのはべつに構わなかった。なにしろ、預かってくれるなら使ってていいよ、と言われていたのだ。ただ、いずれロボットを返したあと、なにかの弾みにあまりに生々しい音声や映像が友だちの目に触れる可能性があるのはちょっといただけないなと思った。
 ちょっと二時間分くらい映像データを削除することはできないのかとロボットに聞いた。そのロボットの機能についてはロボット本人に聞くのがなんでもかんでも手っ取り早かった。部分的な削除はできませんね、とロボットは微笑んだけど、そのあとに、初期化すれば全データが消えることを教えてくれた。工場出荷状態に戻せば、内部に記録された音声も映像もすべて消えるらしい。なるほど。友だちに返す前に初期化すればいいや、と気が楽になったわたしはロボットと関係を持った。そのスキルは噂にたがわず素晴らしかったのだけど、誤算だったのは、あまりに親密な雰囲気が生まれてしまったことだった。緊張感や激しさとは無縁の、つねにくすくす笑っているような時間だったのだ。心を開いた、とか、好きになった、というとすこし違うのだけど、わたしはとてもリラックスしはじめていたし、ロボットのほうも前よりリラックスした様子をみせてくれて、そういう機能なのだとしても嬉しかった。
 それからの日々は楽しかったけれど、楽しいほどにわたしはだんだん苦しくもなってきていた。ロボットに残っているデータのことだった。実際に初期化するかどうかや、映像が友だちの目に触れるリスクなどはもはやどうでもよくなっていた。わたしの心を重たくさせていたのは、記憶をぜんぶ消すやりかたを当のロボット本人に尋ねたという、自分の行為の残酷さについてだった。しかも、わたしとの時間を、わたしとの記憶を全削除するなんて、どうしてあんなことが聞けたんだろう。挽回する方法がぜんぜん見つけられないまま、友だちが旅行から帰ってくる日は近づいていた。
 という夢をみたのはもう二週間くらい前なんだけど、なんかまだちょっと後ろめたいというか心苦しい気持ちが残ってるのはどうしたらいいんでしょうか。ロボットと付き合う話だと、むかし読んだタニス・リーの『銀色の恋人』という小説がめちゃめちゃおもしろかったです。ハヤカワ文庫SF。

 

お正月革命

クリスマスとの付き合い方はもうずいぶん前に決めて、それからずっと変わっていない。クリスマスにはクリスマスの上を転がりまわること。お正月との付き合い方がまだ決められず、毎年試行錯誤を繰り返しているものの、今年もまたこうしておろおろしている。
その理由ははっきりしている。日本におけるお正月は「家族」や「実家」などと密接だからだ。欧米ではクリスマスのほうが家族のためのイベントだと聞く。わたしももし欧米に生活していたらクリスマスとの付き合い方におろおろしていたかもしれないのだけど、日本では幸いにしてクリスマスは恋人たちのイベントだということになっている。いや、クリスマスが恋人たちのイベントだというのは九十年代に置き去りにされたお約束なのかもしれないし、たとえば近年の日本でのハロウィンの台頭は、ハロウィンが決して恋人たちのためのイベントではなく「友だち」や「仲間」とのイベントであることに関係があるのかもしれない、それほどまでに「恋人」という関係性自体、あるいはその関係性とイベントのセット売りを今ではだれも求めていないのかもしれないけれど、わたしはそれでもクリスマスを恋人たちのためのイベントだと思い続けたいところがある。なぜなら、クリスマスにおける「恋人たち」とは「実家」をはぐれた者たちだからだ。クリスマスに家でチキンを食べずにおしゃれして街に出るのは、いや、そもそも「恋人」を持つということ自体が「実家」に対する造反だ。クリスマスイブの夜の恋人だちは、実家を捨てた者たちであり、しかし次世代の実家は(すくなくともまだ)形成していない、無色の孤児たちなのだと思う。
クリスマスからわずか一週間で、あんなに孤児だらけにみえた世間の様相は一変する。不思議なことにこの世は実家だらけだ。一週間前の孤児までが巣に戻っていく。わたしはもうわりと長くわたしとして生きているはずなのに自分が大金持ちじゃないことや自分が美人じゃないことや自分が天才じゃないこと、それらの属性を持っていた瞬間がいちどもないことがうまく飲みこめていなくて、たぶんそのせいでお金持ちのことも美人のことも天才のことも憎むことができないのだけど、同様に自分に「実家」的なものがないこともうまく飲みこめていない。実家的なものがない人はたくさんいるけれど、おそらく彼らの苦しみは他人の実家や他人の団欒を目にしたときにそれを憎んでしまうところにあると思う。貧乏人がお金持ちを、凡人が天才を憎むように。自分がそれを持っていないことがピンと来ていないわたしにはその苦しみがなく、それ自体はありがたいことのような気はするのだけど、問題はみんなが実家に向かっているとなんとなく真似して同じ方向に足を踏み出してしまうことなのだ。自分の家のリビングの扉を開けると、わたしが想像するところの「お正月の団欒」が広がっているような気がする。重箱とか、福笑いとか、小さい子どもとか、鏡餅とか、そういうもので構成されている「お正月」だ。
扉を開ける。わたしのリビングにはがらんと本が積みあがっているだけなことがまだ理解できず、自分なりのお正月のパーツを寄せ集めてみる。今年もお雑煮をつくった。かまぼこや黒豆などいくつかの食べものをスーパーで買ってきてみた。ふだんはつけないテレビをつけた。そして、それらのパーツの寄せ集めがなにも再現しないことに気づくときはじめて茫然とする。その感情ははじめてすこし悲しさに近いかもしれない。
あらゆる「実家」的なものに完全に背を向けるか、近づくための渾身の努力をするか、お正月の付き合い方を決めるというのは現状その二択なのだと思う。何年かけてもそれを決められないわたしは今年はお箸を持って出歩きたい。友だちがいる友だちの実家に我が物顔で押し入っておかずをひとつだけ食べることをくりかえしながら日本中をまわりたい。文字にするとずいぶんいじましい望みのようにみえてしまうかもしれないけれど、わたしにとってそれは「お正月」と「実家」の密着のあいだに無粋な箸を差し入れる、おもしろおかしい革命なのだ。

 

禁煙に近いこと

最後に煙草を吸ってから4ヶ月近くが経っている。わたしは長い喫煙歴のなかで過去にただいちどだけ禁煙を試みたことがあって、そのときはきっかり3ヶ月の禁煙で終わったので、ここは新境地だ。

 

禁煙しよう、と決意をしたわけではなかった。なんなら今も禁煙しているつもりはないので、煙草やめたの?と聞かれると困ってしまう。「やめてはないけど、吸ってない」と答えざるを得ず、相手も困ってしまう。喫煙習慣はすばらしいものだけど、コストを筆頭に不都合もいろいろとあるので、吸わずに済むならそれはそれで都合がいいんだよな、というような、とても煮え切らない気持ちでいる。これが禁煙だったら4ヶ月も吸っていないのはそれなりに順調なわけだけど、これが禁煙ではない別のなにかだからこそ吸わずにいられるのかもしれない。わたしはなにかを決めるのが苦手なのだ。なにかを選び、なにかは選ばない、という切断面に立つのが苦手だ。自分にすらずるずる流されたい。

 

とはいえ、「禁煙に近いこと」をしているので、むしょうに吸いたくなる瞬間がくるのだと思っていた。少なくとも以前の禁煙のときにはその瞬間は波のようにくりかえしくりかえし押し寄せてきた。あるときひときわ高い波がきて、根負けして一本吸ったのが3ヶ月目だったのだ。
今回、待てど暮らせど不思議なことにその瞬間はやってこず、食事のあとも、コーヒーを飲むときも、いいセックスのあとも、よくないセックスのあとも、ちょっとした空き時間にも、わたしの手は煙草を探らなかった。いいセックスやよくないセックスをしていたのだったかは実はちょっとよく思い出せないのだけど、煙草をむしょうに吸いたくなってはいない、ということは思い出せる。いつも行く喫茶店で習慣的に喫煙席に座り、べつに吸いたくならなかった。禁煙中の人にとっては最も鬼門といわれる飲み会の席で、まわりの人たちは吸っていたり、隣の人と話すことがなくなって手持無沙汰にもなったりしたけれど、それでも吸いたくはならなかった。

 

だけど、その瞬間は旅先で唐突にやってきた。トリガーになったのは景色だったのだ。
海が間近にみえる温泉宿に泊まった翌日、宿にほど近いある喫茶店を訪れた。そこもまた海に臨む崖っぷちぎりぎりで営業するスリリングな喫茶店で、急勾配にへばりつくように建てられていた。
複雑に外階段をのぼったり降りたりしてやっと店の入り口にたどり着こうとしたとき、外階段を降りきった踊り場のような場所に喫煙所が設けられていることに気がついた。

 

あそこで煙草が吸いたい。

 

それはかなり強烈な吸いたさだった。霧雨のような細かい雨が降っていて、肌寒さが心地よかった。あそこから崖下に広がる海を眺めて、この世の果てにいるような気分で煙草が吸いたい。雨と高さと海と遠さがまざったひややかさを吸いこみたい。煙草を吸わないといまみている景色が穴のあいた浮き輪みたいに自分から漏れていく気がした。
わたしにとって煙草とは、空気を濃く吸わせてくれるもの、空気に含まれる景色の情報まで吸い込んでいるかのような夢をみさせてくれるアイテムだったのかもしれないと思った。

 

そのとき目の前にコンビニがあればぜったいに煙草を買っていたと思う。それも、ひさしぶりに煙草を買うことについて挫折感などはまったくおぼえず、今こそが煙草をもっとも美しく存在させる瞬間だ、という確信によって、崇高な使命感を帯びていただろうとすら思う。ただ残念ながらコンビニは崖の中腹にはない。崖の中腹にあるのは絶景を売りにするためにむりやり建てた喫茶店だけだ。
わたしは深呼吸をしながら煙草をあきらめて喫茶店に入り、珈琲を飲み、すこし眠り、東京に帰ってきた。煙草を吸いたさもそれきりだった。よく通るコンビニの横に喫煙所がある。通り抜けるときに副流煙の匂いがする。うん、いい匂いだな、と思いながら改札へ向かう。

 

 

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