禁煙に近いこと

最後に煙草を吸ってから4ヶ月近くが経っている。わたしは長い喫煙歴のなかで過去にただいちどだけ禁煙を試みたことがあって、そのときはきっかり3ヶ月の禁煙で終わったので、ここは新境地だ。

 

禁煙しよう、と決意をしたわけではなかった。なんなら今も禁煙しているつもりはないので、煙草やめたの?と聞かれると困ってしまう。「やめてはないけど、吸ってない」と答えざるを得ず、相手も困ってしまう。喫煙習慣はすばらしいものだけど、コストを筆頭に不都合もいろいろとあるので、吸わずに済むならそれはそれで都合がいいんだよな、というような、とても煮え切らない気持ちでいる。これが禁煙だったら4ヶ月も吸っていないのはそれなりに順調なわけだけど、これが禁煙ではない別のなにかだからこそ吸わずにいられるのかもしれない。わたしはなにかを決めるのが苦手なのだ。なにかを選び、なにかは選ばない、という切断面に立つのが苦手だ。自分にすらずるずる流されたい。

 

とはいえ、「禁煙に近いこと」をしているので、むしょうに吸いたくなる瞬間がくるのだと思っていた。少なくとも以前の禁煙のときにはその瞬間は波のようにくりかえしくりかえし押し寄せてきた。あるときひときわ高い波がきて、根負けして一本吸ったのが3ヶ月目だったのだ。
今回、待てど暮らせど不思議なことにその瞬間はやってこず、食事のあとも、コーヒーを飲むときも、いいセックスのあとも、よくないセックスのあとも、ちょっとした空き時間にも、わたしの手は煙草を探らなかった。いいセックスやよくないセックスをしていたのだったかは実はちょっとよく思い出せないのだけど、煙草をむしょうに吸いたくなってはいない、ということは思い出せる。いつも行く喫茶店で習慣的に喫煙席に座り、べつに吸いたくならなかった。禁煙中の人にとっては最も鬼門といわれる飲み会の席で、まわりの人たちは吸っていたり、隣の人と話すことがなくなって手持無沙汰にもなったりしたけれど、それでも吸いたくはならなかった。

 

だけど、その瞬間は旅先で唐突にやってきた。トリガーになったのは景色だったのだ。
海が間近にみえる温泉宿に泊まった翌日、宿にほど近いある喫茶店を訪れた。そこもまた海に臨む崖っぷちぎりぎりで営業するスリリングな喫茶店で、急勾配にへばりつくように建てられていた。
複雑に外階段をのぼったり降りたりしてやっと店の入り口にたどり着こうとしたとき、外階段を降りきった踊り場のような場所に喫煙所が設けられていることに気がついた。

 

あそこで煙草が吸いたい。

 

それはかなり強烈な吸いたさだった。霧雨のような細かい雨が降っていて、肌寒さが心地よかった。あそこから崖下に広がる海を眺めて、この世の果てにいるような気分で煙草が吸いたい。雨と高さと海と遠さがまざったひややかさを吸いこみたい。煙草を吸わないといまみている景色が穴のあいた浮き輪みたいに自分から漏れていく気がした。
わたしにとって煙草とは、空気を濃く吸わせてくれるもの、空気に含まれる景色の情報まで吸い込んでいるかのような夢をみさせてくれるアイテムだったのかもしれないと思った。

 

そのとき目の前にコンビニがあればぜったいに煙草を買っていたと思う。それも、ひさしぶりに煙草を買うことについて挫折感などはまったくおぼえず、今こそが煙草をもっとも美しく存在させる瞬間だ、という確信によって、崇高な使命感を帯びていただろうとすら思う。ただ残念ながらコンビニは崖の中腹にはない。崖の中腹にあるのは絶景を売りにするためにむりやり建てた喫茶店だけだ。
わたしは深呼吸をしながら煙草をあきらめて喫茶店に入り、珈琲を飲み、すこし眠り、東京に帰ってきた。煙草を吸いたさもそれきりだった。よく通るコンビニの横に喫煙所がある。通り抜けるときに副流煙の匂いがする。うん、いい匂いだな、と思いながら改札へ向かう。

 

 

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