お正月革命

クリスマスとの付き合い方はもうずいぶん前に決めて、それからずっと変わっていない。クリスマスにはクリスマスの上を転がりまわること。お正月との付き合い方がまだ決められず、毎年試行錯誤を繰り返しているものの、今年もまたこうしておろおろしている。
その理由ははっきりしている。日本におけるお正月は「家族」や「実家」などと密接だからだ。欧米ではクリスマスのほうが家族のためのイベントだと聞く。わたしももし欧米に生活していたらクリスマスとの付き合い方におろおろしていたかもしれないのだけど、日本では幸いにしてクリスマスは恋人たちのイベントだということになっている。いや、クリスマスが恋人たちのイベントだというのは九十年代に置き去りにされたお約束なのかもしれないし、たとえば近年の日本でのハロウィンの台頭は、ハロウィンが決して恋人たちのためのイベントではなく「友だち」や「仲間」とのイベントであることに関係があるのかもしれない、それほどまでに「恋人」という関係性自体、あるいはその関係性とイベントのセット売りを今ではだれも求めていないのかもしれないけれど、わたしはそれでもクリスマスを恋人たちのためのイベントだと思い続けたいところがある。なぜなら、クリスマスにおける「恋人たち」とは「実家」をはぐれた者たちだからだ。クリスマスに家でチキンを食べずにおしゃれして街に出るのは、いや、そもそも「恋人」を持つということ自体が「実家」に対する造反だ。クリスマスイブの夜の恋人だちは、実家を捨てた者たちであり、しかし次世代の実家は(すくなくともまだ)形成していない、無色の孤児たちなのだと思う。
クリスマスからわずか一週間で、あんなに孤児だらけにみえた世間の様相は一変する。不思議なことにこの世は実家だらけだ。一週間前の孤児までが巣に戻っていく。わたしはもうわりと長くわたしとして生きているはずなのに自分が大金持ちじゃないことや自分が美人じゃないことや自分が天才じゃないこと、それらの属性を持っていた瞬間がいちどもないことがうまく飲みこめていなくて、たぶんそのせいでお金持ちのことも美人のことも天才のことも憎むことができないのだけど、同様に自分に「実家」的なものがないこともうまく飲みこめていない。実家的なものがない人はたくさんいるけれど、おそらく彼らの苦しみは他人の実家や他人の団欒を目にしたときにそれを憎んでしまうところにあると思う。貧乏人がお金持ちを、凡人が天才を憎むように。自分がそれを持っていないことがピンと来ていないわたしにはその苦しみがなく、それ自体はありがたいことのような気はするのだけど、問題はみんなが実家に向かっているとなんとなく真似して同じ方向に足を踏み出してしまうことなのだ。自分の家のリビングの扉を開けると、わたしが想像するところの「お正月の団欒」が広がっているような気がする。重箱とか、福笑いとか、小さい子どもとか、鏡餅とか、そういうもので構成されている「お正月」だ。
扉を開ける。わたしのリビングにはがらんと本が積みあがっているだけなことがまだ理解できず、自分なりのお正月のパーツを寄せ集めてみる。今年もお雑煮をつくった。かまぼこや黒豆などいくつかの食べものをスーパーで買ってきてみた。ふだんはつけないテレビをつけた。そして、それらのパーツの寄せ集めがなにも再現しないことに気づくときはじめて茫然とする。その感情ははじめてすこし悲しさに近いかもしれない。
あらゆる「実家」的なものに完全に背を向けるか、近づくための渾身の努力をするか、お正月の付き合い方を決めるというのは現状その二択なのだと思う。何年かけてもそれを決められないわたしは今年はお箸を持って出歩きたい。友だちがいる友だちの実家に我が物顔で押し入っておかずをひとつだけ食べることをくりかえしながら日本中をまわりたい。文字にするとずいぶんいじましい望みのようにみえてしまうかもしれないけれど、わたしにとってそれは「お正月」と「実家」の密着のあいだに無粋な箸を差し入れる、おもしろおかしい革命なのだ。