彼の人生

折りたたみ傘は嫌い。

折りたたみ傘を折りたたむことが好き。とても好き。

 

よく使う国分寺駅は改札の並びに駅ビル丸井の入り口があるので、次の中央特快まであと7分あるなぁ、その7分をホームで待つのは暑いなぁ(もしくは寒いなぁ)、というようなとき、その数分だけぱっと丸井に入る。ほかのいろいろな丸井がそうであるように入ってすぐの一階は雑貨や小物の売り場で、ストッキングやハンカチやアクセサリーや、それから傘がずらっと売られている。

どんなデパートでも傘の売り場にはなぜか必ずやや年配の男性店員がいるような気がするんだけど、丸井国分寺店にも落ち着いた雰囲気の男性店員がいて、客がためしに広げてみてそのまま置き去りにした傘をていねいにたたみなおしている。ずっとたたみなおしている。

彼の人生のことを考える。考えてもまったく想像がつかなくてすぐにあきらめる。あきらめながら、彼がぱさぱさっと傘を振って、1、2分できれいにたたみなおしてしまうスキルに目を奪われる。わたしは傘売り場で傘をたたみなおしつづける仕事がうらやましいのだと思う。でもたぶん彼の仕事はほんとうは傘売り場で傘をたたみなおしつづけることではなく、ほかにもっと難しい業務やつらい仕事をたくさんしているんだろうとも思う。傘売り場で朝から晩までえんえんと傘をたたみなおしてほかには何もしなくていい仕事なんて、わたしの想像のなかにしかないんだと思う。

 

折りたたみ傘が嫌いなのは、世の中の折りたたみ傘を嫌いな人たちと理由はだいたい同じだと想像する。使ったあとで鞄に入れると鞄の中が濡れるし、コンビニに入る前に傘立てに預けようとすると傘立てにフィットせずほかの長傘たちの足元にうずくまるようなかたちになって屈辱的だし、ビニールの傘袋に対しては直径が大きすぎるし、家に帰ってから乾かすのが大変だし、差すとなんだか小さいし、風に弱いし、「持ち歩きやすい」以外のデメリットが多すぎる。

だけど世の中の折りたたみ傘が嫌いな人たちの理由のなかに「使ったあとに折りたたむのが面倒」というものがあるとしたら、それはわたしには当てはまらない。わたしは折りたたみ傘をたたむのが大好きなので、使用後の折りたたみ傘はみんなわたしのところに持ってきてほしい。

 

折りたたみ傘をきれいにたたむにはまずその傘のあるべき姿を傘に聞く必要があって、たたむ準備(まずはぽきぽきと骨を折って、突き出た関節の部分をすべて持ち手の隙間に突っ込んでばらけないようにする)が整ったら、くるくると回しながら布地の折り目に触れ、布地がどこで折れているべきなのか、どこでは折れていないべきなのかを確認する。山折りと谷折りがある。

ときには着物のおはしょりを整えるように指を入れながら、隠れている部分も含めて正確に布地の折り目を再現する。それが終わって布地がすべてあるべき姿に折られたら、巻きつける作業。この巻きつける作業に、折りたたみ傘たたみの醍醐味がある。

たとえば長傘の場合は構造が折りたたみ傘より単純なぶんだけ話も簡単で、巻きつける過程で布地なりビニール地なりに負荷をかけずに、つまりあるべき折り目をまったく崩さずに完成させることができるのだけど、折りたたみ傘はそういうわけにいかない。折りたたみ傘は完成形のコンパクトさにそもそも無理があるので、せっかく正しく折った折り目は巻きつける作業でかならず崩れ、ずれ、皺が寄る。

そのずれを最小限にとどめるように、崩れが1ヶ所に偏らず全体で小さなしわを引き受けるかたちになるようにできるだけ分散させながら、それでもじわじわと窮屈そうになっていく布地にうしろめたくなりながら巻きつけを強くしていく。時間がかかる。これを1、2分でできる丸井の傘売り場店員の職人技のことも思う。

せっかくていねいに触れて分かりあうことができた相手の急所を台無しにする。これはこの世で折りたたみ傘に対してだけゆるされている暴力である。