わたしのリトルバード

Twitterがいやになってしまったからblogを書こうかなという気持ちになったといえばそうなんだけど、blogを書こうかなというのは一昨年くらいからずるずる考えてはなんとなく面倒になって放置してきた考えなので、Twitterがいやになってしまったことに背中を押してもらったともいえる。

 

「セッション」という映画を見た。この映画の評価について数年前にネット上で論争というか炎上というか喧嘩というかが起こっていて、そっちのやり取りのほうを熟読してからやっとDVDを借りてきたので、壮大なネタバレののちに見ているということになる。

わたしはもともと映画のネタバレを気にしないタイプで、映画に求めているのがストーリー面でのサプライズではないという理由もあるけれど、それよりも、映画の読解力が低くてすぐ話がわからなくなるのと、登場人物の顔と名前をなかなか覚えられない(とくに日本人以外だと)(日本人でも、たとえば「シン・ゴジラ」の男性の登場人物の見分けはほとんどついていない)ので、ものによってはむしろあらかじめあらすじを頭に叩き込んでから見ないと開始10分で迷子になる、という切実な理由もある。「マルホランド・ドライブ」は今まで見たなかでもとくに好きな映画だったけど、好きな理由には、わたしよりずっと映画リテラシーが高い人たちにとってもきっとあらすじも追えなければ登場人物の「顔」と「名前」も一致しないに違いない、という嬉しさがあったと思う。

小説やドラマについては今のところ読解力には不自由していない上に、小説やドラマにはある程度「ストーリーのおもしろさ」を求めているので、これらのネタバレは薄目で見るようにしていて、わたしは視力がいいのでこれはなかなか大変。だけどそういえば漫画の読解力にはかなり不自由しているので、わたしには「画」を理解する機能があまりついていないのかもしれない。

そういうわけで、終盤でいちおういくつか意外な展開があるというストーリー上はどちらかというと「ネタバレ禁止」な類のこの映画も、そこはまったく気にせずに見はじめたのだけど、見はじめてから気づいたのは、これは「ネタバレ」とはちょっと話が違う体験だな、ということ。熱い批判と熱い擁護の往復という、単なるあらすじよりずっと暑苦しい大量の前情報は、わたしの脳内にすでにかなり細かいディティールの「わたしの『セッション』」をつくりあげていた。

これはたとえば思い入れのある原作が映画化された場合の「解釈違い」に対する戸惑いの拡大版ともいえるけれど、わたしの脳内にしかない「セッション」は本物の「セッション」の上書きに対抗するのがかなり困難なので、戻れる場所がずっとあやふやだという点がずいぶん違う。

当たり前といえば当たり前だし、奇妙といえば奇妙だけど、思い描いていたものといちいちあまりに違うので、ネタバレどころか映画を見ている一瞬一瞬がむしろ新鮮だった。

こういう体験はわたしにとってグッとくるもののひとつ。前情報によって自分の脳内に勝手に建設しちゃったものと実物を見比べて、あまりに違うってことにびっくりするのも、脳内の建設物のほうを保存しようとしてしまう心の動きも、でもきちんとは保存できないその建設物の儚さも、ぜんぶ好き。

 

もう10年以上も前に、Tさんに会うのに半年かかった。

さんは会う前からも共通の知人とのあいだでも話題に名前がのぼりやすいタイプの、つまり華やかなタイプの人で、事前情報はいろいろと得ていた上に、わたし自身も事務的な用事でメールのやり取りはなんどかしていたので、本人に会うまでの半年間にわたしのTさんに対するイメージはほぼ固まっていた。

経験上こういう相手といざ顔を合わせたときにその人が事前イメージと大きく違うということのほうがどちらかというと少なくて、もちろん会ったことのない人を100%の精度で想像することはできないので(この場合の100%ってなんだろうという気もするけど)、微妙なずれはあるけれど、それはすぐに修正されて本物のその人のほうに吸収されていく程度のずれだ。

でも、Tさんは事前イメージと大きく違うほうの人だった。外見面で説明するのがわかりやすいと思うのだけど、「わたしのTさん」は長身で黒髪のストレートロングのヘアスタイルの人だったのに、目の前に現れた本物のTさんは小柄でふわふわした茶髪の人だった。びっくりして、この人はいったい誰だろうと思ったけれど、Tさんは想像とまったく違う声質で「Tです」と言った。

実物をしらずに「わたしのTさん」を抱いていた期間が半年、実物に出会ってから10年以上。とっくに印象は上書きされていてもいい時間が流れていると思うのだけど、わたしはまだ納得できずに「わたしのTさん」を抱いたままで、それはもう生々しく抱いたままで、今でも「この人はどこに行ってしまったんだろう」と考えている。探している。

 

最近だと、ネットショップをずっと眺めていた「リトルバード」という古着屋さんがあって、実店舗の情報も断片的にウェブサイトに載っていたので、それをもとに最初はぼんやりと実店舗を想像していたのだけど、ネットショップで扱っているたくさんの古着、とても可愛くてクセのあるワンピースたちを見ているうちに店舗イメージはどんどん肉付けされてしまい、最終的には行ったことのあるお店のようにくっきりと思い浮かべられるようになった。店を外から見たときの周囲の商店街の様子や、店内のマネキンの位置や角度まで詳細に。

数週間前に実店舗のある中野へ行くついでがあったときについにお店に足を運んだら、なにもかもが想像と違った。照明すら違った。薄暗く、白熱灯に照らされた店内を想像していたのに、陽光がふんだんに入るあかるい店構えで、照明には蛍光灯が使われているお店だった。マネキンはいなかった。ついでに周囲は商店街ではなく住宅街だった(それくらいはウェブサイトでマップを見た時点でわかりそうなものだけど)。

その後、記憶の上書きに対抗するために、この店のことを考えるときに「わたしのリトルバード」のほうを積極的に思い浮かべるようにしているけれど、「わたしのリトルバード」はすでに最近すみっこがかすれてきて、ちらちらと「本物のリトルバード」の映像が挟まるようになってきたので、「わたしのTさん」と違って「わたしのリトルバード」はもうすぐ消滅してしまうのかもしれない。

 

それで、肝心の「セッション」の感想は、「まあまあおもしろい部分もあった」という鈍いものだったけど、「人はなぜスポ根ものに惹かれるのか」ということを考えて、それを考えることはおもしろかった。